記念大会

東葛川柳会創立35周年記念講演

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東葛川柳会創立35周年記念講演「文芸と創作の伝統」

石塚 修(筑波大学人文社会系教授、東葛川柳会顧問)

ただいま、ご紹介にあずかりました石塚です。本日は東葛川柳会35周年、誠におめでとうございます。またお忙しい中、お出でいただきました皆様には厚く御礼申し上げます。いただきましたお時間はおよそ1時間ほどございますが、皆様方には私の話よりも、ご自身の句が入選するか・しないかのほうが気がかりでございましょうし、お食事も済ませたばかりで、脳の方に血液が回る時間帯でもございますので、夢心地にでも聞いていただければ結構です。

さて、今日は「文芸の創作の伝統」ということでお話をいたします。本日お見えの皆様方は全員、川柳の創作者ということでございます。日本では文学を愛好していると言いますと、大抵の場合には、本を読むこと、とくに小説がお好き、というふうに解釈される場合が多いのです。皆様さの場合は、「読む」と言いましても文字が違います。「詠」の方になります。通常は言偏に売る方の「読」む、リーディングを読むというふうに思う方が多いと思います。しかしながら、それは大体の場合には小説散文を読むことが一般的だからで、皆様方のように短詩系の作者でも、ご自宅に本棚には、句集や詩集よりも小説がたくさんあるという方が多いと思います。本屋さんに行きましても、大概並んでいるのは小説の類でございます。それはどうしてかというと、出版業界では、文字量が多い方がお金を取れるということなので、当然と言えば当然でございます。

文学の始まりは「詩」

そもそも文学の始まりは何からかということを考えていただきたいと思います。代表の江畑先生の本(『魔法の文芸 川柳を学ぶ』飯塚書店 2022)を引用してありますが、こちらには、歌が生まれるというふうに書かれているところがございます。暮らしの中から歌が生まれましたと書かれています。すなわちこれからおわかりの通り、人類が発生いたしまして、最初に文学表現を手に入れた、何から手に入れたか、これは歌というものからというふうに考えるべきなのです。これは洋の東西を問わないことであります。ローマでもギリシャでも詩から始まって、次に、ドラマ、戯曲になっていきます。そして、最終的に小説の段階を歩んでいくというのが通常であります。

日本でも古い時代には古事記、万葉集、どちらも古代歌謡が中心となって展開をしております。しかしながら、現代日本人はどう考えているかというと、文学者といえば、これはもう小説家を呼ぶ傾向が非常に強いです。村上春樹氏は今年も駄目でしたけれども、にほんではノーベル賞を今まで取った三人全て小説家であります。
一方、1901年、第一回目の文学賞の受賞者はフランスのシュリ・プリュドムという詩人です。アジアで最初に文学賞を取ったのは、タゴールというインドの詩人であります。かくいうように、いずれにしましても文学の最初は「詩」なんです。

詩の発生説には、江畑先生も最初に労働の中で歌を口ずさむとお書きになっていらっしゃいますが、労働発生説があります。これは田植えであるとか、網を引くとか、米を作るとか、単純な作業をしていくときには、人はリズムを合わせていかなければならないので、歌を口ずさんだ。もちろん単純な作業を延々と繰り返していくわけですから、どうしても単調になるそれを紛らわすために歌を歌ったということです。

もう一つにはですね、宗教、要するに神に対して何かを訴えるため、ですから特別な言葉づかいをするわけです。普通の言葉では神様は聞いてくれませんので、このことが和歌と近代短歌の大きな違いです。

皆様方のほとんどは、短歌=和歌だと思い込んでいらっしゃると思いますが、今、俵万智さんたちが作っているのは、短歌でありまして、和歌ではありません。ちなみに冷泉家などでお作りになっているのが和歌です。和歌は完全なる和語、雅語、すなわち大和言葉で作らなければなりません。大和言葉で唱えないと大和の神様はおわかりにならないということになります。

よく笑い話の一つで申し上げますが、お孫さんの七五三やらで、神主さんの祝詞を聞いていて、家内安全・交通安全・合格祈願などと漢熟語がでてくるのはインチキですよ、などと言うと叱られるかもしれませんが、漢語では日本の神様はわかりません。交通安全はと言うと、これを仮に大和言葉で言おうとすると「道々を行き交うもろもろの車ならびに人々のまがごとに出会うことなく」と言わないといけません。
今、皆様方が作っておられる川柳というのは、和歌とは異なり、平談俗語で作っているというわけです。ここが、連歌が連句というものに変わった大きなきっかけにもなっています。俳句は高尚な言葉づかいであり、川柳はそれに対して身近な、普段の言葉遣いだと思っている方がいるようですが、元々は俳句も和歌に比べれば普段使いの言葉で作られていたわけです。高尚な和歌の連歌に対して、連句は俳諧之連歌と言われ、さらに、その発句だけが取り出されて俳句になったというふうに考えていただければよろしいと思います。

ですから川柳であっても、そもそも詩を作るという行為は、人類が始まって以来の高尚なことをなさっているわけで、けっして卑下なさることはありません。詩は口に出して神様に唱えることに由来しますので、自身でお作りになった川柳の表現に悩んだときは、文字面でなく、とにかく口に出して音にしてみることです。投句の前に何十回も、とにかく発音してみることが、リズムとか調べという歌の原理になっていることをまずここで申し上げたかったわけです。

川柳の定義は?

そうやって出来あがってきた川柳は、どのように定義されているのでしょうか、江畑先生の本にも全日本川柳協会の定義が書かれています。

1967年に出ました浜田義一郎先生が書いた『川柳辞典』の概説を持ってまいりました。「人情、風俗、または人勢の弱点を突き、世態の欠陥を諷し、簡潔・滑稽・機知・風刺・奇警が特色。狂句」と定義されています。皆さん方も、川柳って何ですかって、いろいろな方に聞かれると思うんですけれども、その際に、多くの場合は「人情を詠むんだよ」とお答えをされるだろうと思います。人情の向こう側には何があるかっていうと、花鳥諷詠の俳句の世界だろうと思います。そういうと、俳人の方は、いや、花鳥諷詠じゃない、人間の本質をつくような句を詠んでいると反論される方もいらっしゃるかもしれませんが、正岡子規の唱えた写生、それが高浜虚子に継がれていき、現実の景色をひたすらに写し取る、その写し取り方によって、そこに人間の本性というものを写し取ることができるんだとする、純粋写生となります。それにたいして、斉藤茂吉は実相観入ということを言います。どの景色を読み取るのか。その読み取り方によって、そこには必ず人間の感情が動いているんだということです。ですから俳句を作っている以上は、そこには必ず感情が動いているんだから、私たちも人情を詠んでいるんだよっていう言い方を多分されるんだろうと思います。

では、皆様方が詠んでいる人情と、俳句の人の人情とはどこが違うんだろうかっていうことを、次に説明されていかなければならない宿題が出るのだろうと思います。たとえば「孝行のしたい自分に親はなし」という句。誰でもが知るこの句にしても、詩というよりは、ことわざに近い。川柳には風流の輩がありがたがる伝統的な花鳥諷詠の俳諧にはむしろ抵抗感を持ち、散文的に物を見ようという姿勢があります。文学は形象、すなわち物に託して何かを言う、例え、比喩これが大きな表現方法の一つになっているから、そうした自分の思っていることを思うがままに句にして述べるのは文学としては、相いれないんだと言うような考え方もあります。それにたいして、川柳を作る皆様方は、物に託すのではなくて、物を素直にあるがままに、心のままに表現する姿勢こそ、自分たちの文芸の特質があるということを思っていただく方がよろしいのではないかなと思うんです。ですから、人間の本質を、物に託さないでうまく表現する短詩系文学が川柳ということなのです。そのために老練な人生経験がないと創作できないということにもなってくるわけです。なかなか若い人が川柳に入ってこない。それはそうした点で入ってきにくいのかもしれません。若い人はまだ人生経験が浅いから、皆さんがお示しするような深い人生経験に到達した川柳を理解するにはそれなりの時間がかかるというわけです。

みんな年取るんです。歴史上、老いて死ななかった人は誰一人いません。逆にですね、二十代が、明日死ぬのはいやだなんて、そんなこと毎日考えてちゃ駄目です。二十代で、その老境の人間の人生の本質みたいなものに気づいちゃったら、あり生きてくのつらいですからね。ちなみに江畑先生は今から35年前、当時34歳で東葛川柳会に目覚めて、その域に達していらしたそうですが、不惑を前に、人生の機微、本質を突いた川柳世界に飛び込まれたのですから、すごい感覚の方だったんだろうなと思います。私も毎回『ぬかる道』で拝見する川柳の多くをニヤッとわかるようになりましたので、やはり還暦の域になり、人生の機微がわかるようになったということでしょうか。

大切な「穿ち」という概念

川柳で大切なことは何かというと、一般的に知られていないことをさらっと指摘する、これが「うがち」ということですね。川柳には必ずこの「うがち」という概念が不可欠です。釈迦に説教だと思いますが、改めて辞書を引いてみますと、「老若男女のみんなが知られていないこと、気が付かないようなことをさあらりと教えてあげる」のが「うがち」とありました。つまりは、粋な年寄りの一言ってことですよね。身近で言えば、町内会とか、マンションの管理人組合で何でもごたついてワーワー言っているときに、ご長老が出てきて、一言ビシッと言うと事が終わるってことでしょう。な¥まさにそれが川柳というものだろうと、私はこうした解説を見ておもうわけでございます。

ただし、今月の『ぬかる道』にもありますけれども、江畑先生が『正論』に、先般の国葬の問題の時に某新聞社が急に多くの政権批判に繋がるような作品だけ集めたことに対して反論を書かれていましたけれども、あれは間違った「うがち」ですね。批判、風刺が川柳の本質でしょうが、破邪顕正であるべきです。川柳っていうものは、反社会的なくて、反体制的なのですね。いわゆる権力とか強いものにおもねらない姿勢っていうのが川柳だったというのが、明治時代以来の川柳作家たちの流れだろうとおもうんです。

それはですね、表現の自由が許されなかった、まさに新聞条例や治安維持法などがあって、公に言えないような思いを川柳というツールを使って発信していた時代と、現在のようにいつでも誰でも自由に発信できる時代、他のツールでも言える時代とでは、川柳のあり方も変わっていくべきなんです。それでも、まだ明治時代の社会派の川柳をずっと継続し続けようとする先入観が、世間にも川柳に誤解を与えてしまう作品を生み出しているんじゃないかと思います。

先人の諸説に触れて

大切なのは作る人と受け止める人が同じ立場であるって事が大切なんです。小西甚一先生の「作る人と受け止める人が違うというものは芸術に入らない、これが明治になるまでの日本の考え方です」(『俳句の世界』講談社学術文庫 1995)という考え方です。そういうことを言うと、陶芸やその他の工芸作品作ってる方に叱られるかもしれないんですけれども、明治になるまでは、ああした作品を作っている方達はみんな職人、匠なんです。芸術家とは言いませんでした。芸術家になるのは明治以降になってからです。どうしてかっていうと、作る人と受け止める人は同じ、共同体の中に存在しないといけないよって言う考え方が主流だったからです。

それは和歌を見てもらえればわかると思うんですが、歌人っていうのは、歌会に出ないと歌人じゃないんです。最近はプロの歌人に十万円くらい出すと、あなたのために歌を作ってくれるって方がいて人気だそうですが、ああいう御商売は、少なくとも江戸時代までは成立しない、あなたのための歌はあなたが詠むのです。他人があなたのための歌なんかありえない。私は私の歌を詠めば。そうやって歌会に集まってくる。ですから皆さん方がなさっている句会っていうのは、まさに芸術なんです。要する、作れない人っていうのは悲しい人なんです、ということを小西先生は書いているわけです。

だから逆に言うと、普通の人には、そんなものが作れないわよなどと言わないで、とにかく作ってみようと、川柳って非常に言葉遣いも垣根が低いし、分冊の歳時記も買わなくてもすんで安くすみます。私は中学時代に俳句っていうのをやってみようかなと思って本屋さんに行ってびっくりしましたね。一冊買えばいいと思ったら、なんと5冊もあるんでね。新年なんてのまである。俳句の人は商才があります。しかも、時々、改訂版てのが出まして、新しい季語が入ってます。

この芸術という概念はぜひ覚えておいてください。俳句っていうのは、正岡子規が、もともとそういうみんなでやっていたものを一人でできるものにしたんです。これが、近代という時代なんだ。他人は関係ない、私個人が個人で作るもので仲間は要らない、こうしたことによってむしろ普及したわけです。なぜかというと、今日だって、皆さんは時間をかけて句会に集まってこないといけないわけじゃないですか。一人だったら台所で鉛筆なめなめして作って、一人で楽しんでいればいいわけです。だから集まって作るっていう世界から、ほかならない個人を表現するんだということになっていった。これが正岡子規の一つのアイデアだったんです。

正岡子規を深く勉強されるとわかるけど、正岡は決して連句やってないわけではないし、句会も否定してもいません。初心者には季語も要らないと言っています。とにかく作ろうね、です。どちらかというと、非常に垣根の低い作り方をさせてたんですが、そうすると、知的好奇心の高い人に受けないもんですから、結局段々垣根を高くして、ハードルを越えさせていくということになっています。

前にも話したかもしれませんが、ホトトギスという結社は、東京駅前の三菱の丸ビルに事務所を構えます。そうすると、三菱財閥の総帥の岩崎小彌太を含め、三菱系の重役はみんな俳句に入る。逆に言うと俳句に入らないと、出世が厳しかったのかもしれません。お茶をやっているとわかりますが、三井系の人はみんなお茶に入る。もう慶應出て三井に入ったら、みんなお茶をやるんです。それは益田鈍翁って人が怖かったからかもしれません。お茶やらないと相手にされない。今だとパワーハラスメントになりますから難しいでしょうが、みなさまも職場の机の上にさりげなく川柳の本を置かれたりするといいかなと思います。

その結果、俳句は桑原武夫が第二芸術論で批判されます。これは俳句界の人にとっては桑原バズーカでありまして、もうびっくりしたんですね。どういうことやったかというと、俳句の作者を隠して誰が作ったか当てさせたら、ほとんど当たらなかったということで、俳句っていうのは実は俳句そのもので評価しているのではなくて、要は芭蕉が作ったって言えばいい句だと思っているだろう。蕪村が詠んだからいいと思っているんじゃないのと批判したわけです。そういう芸術は所詮第一芸術ではなくて第二芸術に過ぎないという、俳句界のひとにとっては大嫌いな論文の一つでございます。

小西先生と似たようなことを尼ヶ崎彬という学習院女子大学の先生も述べています。「遊びの伝統」のなかで同じことを言っています。「近代の芸術に見られる芸術家と一般人の深い溝、作家と読者、舞踊家と観客、音楽家と聴衆といった区別がない」(大修館書店『高校 文学国語』2022)これが日本の遊びなんだ。お互いにすぐに変われないといけないんだよ、それが高級な遊びだったんだよっていうことです。今はどっちかというとあそびは、自分は観戦・観覧者で、そっちに行かないとなっていますが、相互交流がなければいけない。他人と共にあるからこと面白いというのです。まさに、今日皆様方がなさっている句会というものは、みんなで一緒にやるから面白いんで、私は投句しないけど、他人の作品にケチだけつけるって人ばかり来ていたら面白くない。互いに切ったり切られたりするから面白いわけでありましょう。やはり句会は歌会の流れなんです。ですから皆様は貴族の流れを継いでいらっしゃる。いや、笑っていらっしゃるけど、貴族の遊びを真似しているんですよ。それを武士が真似して連歌になり、そして高級町人が俳諧で、江戸っ子たちが川柳というふうに流れがあるわけです。

もう一つはですね、一回だけってのが大事なんです。即興。ぱっと読むんです。今日も宿題が出てますけども、やっぱり川柳に皆様方の最後に到達するとことは、ぱっと一句、かっこいいのを詠んで、さっと去っていくという境地でしょう。こうなったらもう最高ですよね。しかも、それが人生の機微を見事についている。

そういう総理大臣が国会の答弁に立ってくれると、川柳界も盛り上がる。そうするとすぐに新聞記者たちから川柳会に質問がきて、あれは一体何を言っているんですかとなる。昔、宇野宗佑という総理がいましたけど、あの方「犂牛」という俳号で俳句をやっていました。国会でなにか俳句で答えると、すぐに新聞記者たちが、大学とかに電話してきて、いったいどういうことを言ってるんでしょうって聞いてきたんですね。ついでに世間の人もなにか俳句って詠めるとかっこいいよねって思ってくれるんです。ですから皆様方も、何か揉め事があったら、川柳を一つ、ちょっと残して会議から去っていくと、みんながあっけに取られて何を言われてるかわからないということになるかもしれません。

俳句と川柳は切れ字があるかないかで区別するという説を復本一郎先生はずっと唱えてます。(『俳句と川柳』講談社現代新書 1999)それに対して内藤鳴雪(『鳴雪俳話』博文館 1907)は着想の違いを言います。「俳句は美を歌ふ、即古趣味の点において別れてゐる」とし、川柳は「人事の最も俗なるうがちでる。人の気づかぬ裏面の表白だ」と言っています。人間が気づかないことに気づかせてあげる、ここなんです。だからやっぱり川柳はやっぱりある程度人間として、年たけて、社会経験をもっていたりするからこそ、良い句ができる。若い人も、そうしたことをピリッと詠んだ句には、ああ人生はこういうことなのかということがわかるだろうと思います。なんでも話して説教すればいいってわけではなく、それをあのわずか一七音の中に人々が納得するように詠んでこそ川柳なんです。

川柳の今後は?

さて最後になりますが、では今後の川柳をどう考えていけばいいか、さっき申し上げたように年を取らないとわからない文芸だよって言った途端に、もう世代断裂が生まれてしまう。じゃあ、どうやって共通の土台をつくろうか、大切なことはまずは共通理解・共同体を作ることです。同じ知識前提の人たちが詠まないと面白くないんです。

サラリーマン川柳が名称を変えるというのは、すこしショックですね。あれはやっぱりサラリーマンっていう共同体、その経験者、それから身近で見ている人たちがサラリーマンの質って何だっていう、それを巧みに詠んでいるから世間に受けてたんじゃないかなと思うんです。それを何か何でもいいから五七五みたいにしちゃうと、ちょっと悲しみがあるんですね。

お年寄りを世話する介護の立場に立つ介護川柳とか、同じ病気、すなわち同病相憐れむではないけど、病院川柳というような、そういう同じコード表を作ることも大切なんです。そういう意味で同じ歴史的な事実を詠む詠史というのも共通の知識前提が必要ですし、共同体を作りやすいですね。

江戸の町人たちが歌舞伎や講談で知っていた歴史的な常識をもとにして詠まれている作品です(西原功『詠史川柳二百選』海鳥社 1999)忠臣蔵・曽我兄弟といった、まさに日本の文化、伝統も、学校川柳などでも反映してほしいです。童話やおとぎ話の一つの物語や、今月は源氏物語の桐壺を読んで、みんなでそこから川柳をつくろうでも良いと思います。そうすると共通理解のベースがしっかりするので、評価も決めやすいということも言えると思うんです。

最初の江畑先生のご挨拶にもありましたけれども、結局は川柳を文化総合体として理解し発展させていかないとならないと思います。警句のきいた洒落たことを言うっていうのは、パロディーです。パロディーっていうのは教養の元がないとできない。

ですから新しい学習指導要領でも、「本歌取り」を高校生に教えてくださいという項目があります。近代の芸術感覚で言うと、真似は最低の行為ということになります。人の真似をするんじゃない、お前はお前にしかできないことを「らしくやれ」です。

しかしですね、本歌取りということは、古今集からある和歌の伝統を踏まえながら、その一部を古典からとるとことで、その雰囲気や背景を生かしつつ、残りに自分らしさを出すということです。その借りてきた部分を受け止めた人がわからないと、どっちが馬鹿にされるかというと、わからない人が馬鹿にされるわけですね。川柳は、もちろん現在のことを詠むことも大切だと思いますけれども。これから後に日本の文化、古典知識として何を伝えていきたいのかということまでお考えになって作っていっていただけるといいんじゃないかと、ふと思うに至りました。

たまたま控え室でいただいた『ぬかる道』にも、丸山芳夫さんというお蕎麦やさんだった方が書いていました。例えば、「九つがまてずときそば四つにある」なんていう句は、やっぱり落語の「時そば」がわからないと何言っているかわからない。今月は落語で「時そば」詠んでみようとか、今月は楽殿「茶の湯」で詠もうとなると、結構このバリエーションが出てきて共通の話題作り、共同体づくりになるのではないかと思っております。

堅苦しくなってしまいますが、落語川柳会とでもいうふうに、同じ落語をみんなで聞いて、その後、句会にするのでもいいでしょうし、同じお芝居、忠臣蔵で、今日は何段目を見ましょうでもいい。團十郎の襲名が始まりましたが、たとえば勧進帳をみんなで見て、その後、句会をするとか、そういうこともされてみてもよいかと思います。同じテキストベースを使いながら、それを転じていくことで、楽しい川柳が詠めるんじゃないかなと思った次第です。

素人の勝手な申し上げようで、ベテランの方にはお腹立ち向きもいらっしゃろうかと思いますが、素人なりの見方で、川柳という文芸がさらにご発展なさる一つのお手伝いになればなとお話をさせていただぢたわけです。

本日こうして会場にいらっしゃる方は、若者言葉で言えば「意識高い系」の皆様です。意識高い系の川柳をお作りいただいて、周りの方にもお示しになられるとさらにかっこいいかなと思います。最近はナイスミドルなんて言葉が流行りますが、ナイスシルバーの皆様には、やがてプラチナかゴールドに変わりますので、今の最高値の金相場のように、ぜひぜひ高値のお年寄りになっていただけるように、次の世代にお前たちもいくか行く道なんだからと、人生の蘊蓄を川柳を通して伝えられることを願ってやみません。

選句もそろそろ終わる頃合いだろうと思います。東葛川柳会、かたご参会の皆様の会がいよいよご発展なされますことをお祈り申し上げまして、拙い話でございますが、おしまいとさせていただきます。