代表の部屋

ゲストとホスト

代表の部屋

秋田からゲスト選者をお迎えした。通常の句会では最も遠い距離からお迎えしたゲストではないか、そんな紹介を三月句会開会の挨拶の中で述べさせていただいた。

句会後帰宅して資料を確認したら、少々違った。高知から北村泰章氏を、平成6年八月句会にお招きしていたのである。そうだった。高校野球でも有名な高知商業高校の社会科教諭・北村泰章先生が、数名の女子高生を引率して諏訪神社の句会場にお見えいただいたのだ。かれこれ10年以上も前のことになる。改めて思い起こした。

凝り性の小生。秋田と高知とどちらが遠いか、地図帳を取り出して比較してみる。その結果、高知の方が若干遠いことが分かった。自宅にあったのは二宮書店発行の地図帳。斜軸正角割円錐図法による、東京を中心として半径500㎞・1,000㎞・1,500㎞・2,000㎞の同心円が描かれている。その500㎞の少し内側に秋田市があり、その外側に高知市が位置していた。
地図帳は面白い。日本の最南端・沖ノ鳥島と領土問題で注目を浴びている尖閣諸島は、いずれも約1,700~1,800㎞の距離にある。北方領土の択捉島は意外に近く、東京からは約1,300㎞の距離。これまた現在注目の竹島はさらに近く、約700㎞。台北はどうか。2,000㎞の同心円の少し外側にあって、約2,100㎞ほどの距離であった。

話を戻す。
三月句会ゲストの長谷川酔月氏とはほぼ初対面と言ってよかった。酔月氏については、秋田川柳銀の笛吟社の代表であること。お仕事は警察官。代表として大変行き届いた吟社の運営をされていること。その程度の予備知識しか持ち合わせていなかった。それくらいの知識で酔月氏を紹介するのには少々の躊躇いがあって、柳誌『銀の笛』のスローガンを披露させていただいた。

    『銀の笛』表紙4に、毎号印刷されているスローガンは左記の通り。

  • 川柳の更なるレベルアップを図るため、川柳の各種行事に参加しよう。
  • 川柳を息の永い趣味にするため、家庭と仕事を大事にしよう。

正当派の主張である。特に後者。私自身は今も昔も仕事は大切にしているが、もう一つについては耳が痛かった。そんな感想も率直に述べた。

対する酔月氏の披講前の柳話。曰く、『ぬかる道』誌が大判で読みやすいこと。読み物が豊富でレベルが高いこと等々を、お褒めいただいた。『ぬかる道』誌が大判で読みやすい点は、以前にも例えば番傘川柳本社主幹の礒野いさむ氏からもご指摘されたことがあったが、今回は秋田と千葉の距離を越えて、お互いがその柳誌の有り様に注目していたようだ。期せずしてそのことが分かったのであった。

さて本題。

東京から約2,100㎞の距離にある台北市。そこを目指して、私たちは3月27日(日)朝成田空港に集合した。3月末にしては少し肌寒い気候。しかも春休みのせいか、空港は大変な混みよう。それでもみんな元気に出発した。

午後、台北着。関西空港からの参加した加島由一さんも合流して19名(佐竹明・川崎信彰のお二人は翌日の句会から合流)。台湾の印象記については、参加者の皆さんそれぞれの感想が誌上に掲載される。今回の海外吟行句会がいかに楽しく充実していたかを、感じていただけるものと思う。

そこで、私の立場からは総括的なことを書きとめておきたい。

① 台湾を選んで良かった。

その親日度・治安の良さもさることながら、漢字文化の異同に興味と親しみを覚えた。一行が到着して、まず気がついたがトイレの表示。「洗手間」とある。ほかにも「盥洗室」や「厠所」という表示があった。上海ではたしか「ヱ生間」とも書かれてあったが(「ヱ」は「衛」の簡体字)、台湾では見かけなかった。

最高齢参加者の濱川ひでこさんは、縣・國・鹽の旧漢字を懐かしいと言っておられたのが印象的である。龍山寺(台北最古の仏教と道教の寺廟)の十二支も面白かった。十二支の表記がすべて日本とは違っている。すなわち、「鼠・牛・虎・兔・龍・蛇・馬・羊・猴・雞・狗・猪」。カレンダーは、大陸と同じ曜日表記の「星期一(=月曜日)」。

時間がなくて本屋さんには立ち寄れなかった。個人的には残念な思いであったが、それでも空港で本を数冊買い求めた。『ドラ(ドラの漢字が出力できない。口編に多、口編に拉を充てる)A夢(=ドラえもん)』の漫畫(=マンガ)や、『霍爾の移動城堡(=ハウルの動く城)』の卡通(=アニメ)もあわただしく買い求めた。カラオケを「卡拉OK」と書くのはあまりにも有名だが、日本語の「の」の便利な使い方が最近知られるようになってきたようだ。何に対しても、「○○の△△」という言い方をすれば連体修飾格になる。『霍爾の移動城堡』もその一例であろう。

書き出せばきりがない。「歡迎光臨(=いらっしゃいませ)」の看板をブライダルショップが掲げている。その中に「訂婚」の文字があった。「訂婚」?、植竹団扇さんと「結婚を訂正するの意味かな?」などとジョークを交わした。念のため解説を付す。ブライダルショップだから、婚約の解消・訂正を看板に書いたりはしない。台湾語で(北京語でも?)「訂婚」は「婚約」の意味。ちなみに、婚約解消は「退婚」と言うらしいから、ややこしい。

台湾の歴史ある港町・淡水河はあいにくの雨であった。それでも私たちは、「情人橋」という粋な名前の橋を恋人同士のように渡った。そう言えば、バレンタインデーは、「情人節」と呼ばれていたはずだ。

② その台湾は熱い政治の季節の中にあった。

日本でも大きく報道された3月26日(土)の集会。台湾「独立」の動きに対しては、今後武力行使も辞さないとする反国家分裂法の制定に大陸中国は踏み切った。こうした大陸側の強い姿勢に、台湾側は「反併呑法」のデモで応えたのである。実際、現地の新聞は紙面をはみ出さんばかりにこの集会とデモを伝え、ごく普通の台湾人がごく普通に政治を語る場面に何度も出くわした。

私たちはこうした動きの最中に台湾に降りたったことになる。しかしながら、台湾の人々は穏やかであった。町の空気も平穏であった。市内中心部は、前日100万人のデモで埋め尽くされたような殺気だった様子は微塵も感じられなかった。こうした折りには、えてして革命前夜の雰囲気が漂っていたり、民衆が暴徒と化したりすることもあるらしいのだが、台湾の町も人もいたって平和であった。この辺にも台湾人の民度の高さを思わせた。

考えてもみたい。台湾がその政治的自由を獲得したのは、つい最近のことだった。年表風に記そう。

1949年 蒋介石の国民党が台湾に逃れ、戒厳令を施行。
1975年 蒋介石死去。息子の蒋経國がその地位を継承。
1987年 三八年にわたる戒厳令(=世界最長)を解除。
1988年 蒋経國総統死去。副総統の李登輝氏が総統の地位を継承。台湾史上初の本省人が政治を動かす。
1996年 台湾初の総統直接選挙で李登輝氏を選出。
2000年 総統選挙で民進党の陳水扁氏当選。台湾政治史上初の政権交代が実現。

上記のようなことは、旅行のガイドブックにも記されている台湾の歴史である。私たちはあまりにも台湾を知らなさすぎたのかも知れない。今回の旅行でその点を反省させられた。

上の戦後史をたどってもお分かりのように、台湾の人々が自由を獲得したのは、せいぜいここ20年弱のこと。戦後の長い時期、台湾で政治を語ることはタブーであった。現地ガイドの侯嘉恩さんも何度かこの点に触れていた。侯さんは50歳。台湾の大学で日本語を学び、今回のツアーのガイドを務めてくれた。解説は真面目で熱心で教養が深く、文化の団体にふさわしい方に案内していただけて、幸せであった。

ここで、会の原則的立場を改めて明らかにしておきたい。東葛川柳会は川柳を楽しもうとする文化の団体である。従って、政治や宗教に対しては一線を画してきた。個々人の思想信条はむろん自由だが、そのことを会に持ち込んではならない。発足以来の変わらぬ原則である。改めて記しておきたい。

その上で申し上げる。自由のないところに自由な文芸は育たない。言論の自由を獲得して20年足らずの台湾。民主化された台湾の今後に注目をしていきたい。

③ 台湾を選んで良かった。

最大の理由は、何と言っても台湾に川柳会が存在したことだ。台湾川柳会の李琢玉会長(ミニ講演をしていただいた蔡焜燦氏は、琢玉氏のことを「宗匠」と呼んでおられた)にはお世話になった。この場をお借りして厚く御礼申し上げたい。

台湾側の句会出席者は15名であった。琢玉氏から参加者お一人お一人の紹介があった。ユーモアたっぷり、愛情たっぷりのご紹介であった。参加者の年齢は比較的高いようだったが、職業・経歴・歴史と、それぞれバラエティーに富んでおられた。人も日本語もじつに生き生きとしていた。

台湾の方々には句会日を変更してお集まりいただいた。句会は第一日曜が通例。そこを私たちの都合に合わせて下さった。そうしたご苦労は、主宰の李琢玉氏は一言もおっしゃらなかった。日本語に厳しく、政治には辛口の琢玉氏だったのに、である。そこにゲストを迎える温かい気配りを感じた。

もし、合同句会やミニ講演といった企画がなかったら、台湾吟行は単なる観光ツアーに終わっていたにちがいない。改めて琢玉氏と台湾川柳会の皆さまに御礼を述べさせていただきたい。どうもありがとうございました。

(『ぬかる道』巻頭言、2005年5月号掲載)