B29の贈り物

「B29の贈り物」⑤

B29の贈り物

焼け焦げの死体の山、……我が家があった

街へ近づくにつれて、異様な匂いが流れてきた。酸っぱいのと、ゴミを焼くのと混ぜたような、異臭である。焼け残ったレンガ塀の角を曲がった時、眼に入ったのは、黒焦げの死体の山だった。「お前は見なくていい」と母は、私の頭を抱えて目隠しをしたまま、通り過ぎようとしたが、怖いもの見たさで、チラッと見てしっかり眼に焼き付けた。直撃で即死なら兎も角、防空壕の中やら、煙にまかれてやら、身もだえしながらの形のままでの窒息死。今思うと、余計に怖い。いつも学校へ行く路地をはさんだ両側の大きなお屋敷の庭木は、半焼けで残っていた。因みに家は完全に焼けていた。その路地を通り抜けたら、我が家があった。私の二軒長屋と、その前の同じ作りの長屋と、少し離れた二軒が。それぞれ奥様消防隊が、孤軍奮闘して守り抜いたのだった。家の周りが一寸した水田だったこと、屋根を貫いて座敷に落ちた焼夷弾がなかったことも、幸いだったのだろう。伯父も、伯母も無事で、近所も皆無事だった。後で知ったが、私の同級生が二人死んだ。

私が背負って逃げたランドセルも、筆箱も、ボール紙製で、水をビシャビシャに含ませた夏蒲団をかぶったので、バラバラになり、伯父が会社の焼け跡から拾ってきた、焼け残りのズックの布で、母が縫ってくれたランドセルは、六年生まで使った。

その日から暫く、私の家は、会社(帝国繊維株式会社富山工場)の厚生課事務所になった。長野や新潟からの出稼ぎ女工さんが、故郷へ帰るための、証明書の発行業務だった。

暗闇だけで、何もなくなった富山

「これだけ焼いたら、もう空襲は来ないだろう。」誰もがそう思うほど、富山市は何もかも無くなった。私の家から約2キロ弱のところにある富山城の大して高くない石垣が良く見えた。市街地の99.5%が灰になった。死者2700名(内2名が私のクラスメート)、負傷者8000名、富山市を襲ったB29、174機、投下した爆弾・焼夷弾1400トン。約50万発。米軍の計算では、10.坪(畳20枚)に16発。ほとんど畳1枚に1発の割合で、焼夷弾が降ってきたのである。良く当たらなかったものだ。

空襲は来ないけれども、戦争はまだ続いていた。新聞もラジオも無いから、ニュースは会社経由で伯父が持ってきた。電気が来ないから、夜は暗闇である。食事の時だけ、ローソクを点ける。でも、戦争は続いているから、光が外へ洩れないように夏の暑い盛りに暗幕のカーテンを閉める。こんな焼け野原になったところを、敵機が襲ってくるなどと、本当に考えていたのだろうか。戦争は、大人たちの疑心暗鬼を募らせ、全うな判断を曇らせる。踏み止まって、火ハタキとバケツリレーで消火に当たっているうちに、煙に巻かれて窒息死した奥様消防団のモンペ姿の黒焦げ死体が哀しい。死者2700名のうち、1700名が女性だったそうだ。

山本由宇呆
連載コラム「B29の贈り物」について
本稿は 東葛川柳会の『ぬかる道』誌(2005年9月~2007年9月)に24回にわたって連載された「由宇呆少年の戦争と平和」を抜粋し、若干の補筆を加えて2023年7月にUFO書房より発行された「B29の贈り物(由宇呆少年の戦争と平和)」を転載したものです。
山本由宇呆氏は現在87歳(昭和13年生まれ)、「我々より年長である方々にとっては、同様な体験があるはずで、決して特別な体験とは思っていない。ただ思い出して頂くもよし、それ以下の年代の方々には、そんなこともあったんだと、認識を新たにして頂ければ嬉しい。」とコメントされています。