長いながい夏休み
初めての夏休みは、7月21日から9月30日まであった。いろんな事がありすぎて、初めて学校という社会に入った一年生にとって、大変な変化が訪れようとしていた。いや、大人にとっても、初めての変化だったのだろう。
7月21日頃は、富山が空襲されるという噂があって、だんだん現実味を帯びてきて、終に8月1日の夜を迎えた。呑気な惣領の甚六にとって、急に危ない事が現実になったのである。夢中で母のうしろにくっ付いて九死に一生を得たが、もし途中で母とはぐれたら、母が爆弾にやられたら、自分はどうなっていたか分からない。そして間もなく終戦。大人たちは食い物探しと、価値観を引っ繰り返す準備に大わらわだったが、子供はそんな事は知る由もない。焼けた学校から少し離れたところに「立山重工」という工場があって、そこに米軍の捕虜が大勢働かされていた。9月に入るとその捕虜に米軍機から食料品やら慰問品やらが、パラシュートで投下された。目立つようにした極彩色の落下傘が風に煽られて田んぼに落ちたのを取りに(子供が動かせる代物でなかったし、背の高い金髪碧眼に怒鳴られて逃げた)行ったり、農家の蔵の屋根にグラマンが不時着したのを見て、悪ガキ連中と飛行機の風防ガラスを盗みに(警戒が厳重で近づけなかった)行ったり、食料調達で、伯父の後について富山駅の裏にあった沼に、雷魚を釣り(殿様蛙を餌に1m位の奴をロープで釣り上げる)に行ったり、そんなことをしながら宿題の無い長い夏休みは終わった。
新学期はお座敷教室
富山市が綺麗に焼けて、しかも戦争が終わって、國のしきたりが全部変って、兎も角も学校(の授業)が始まったのは、10月2日だった。学校が焼けたので、ある会社の寄宿舎を借りての授業だった。畳の6畳間に脚付きの裁ち板を並べて机にして、50人が入った。当然隣の奴と膝も脚も体もぴったりくっつけているので、落ち着くどころではない。押した押さない、触った触らないで、喧嘩は四六時中。そのたびに級長が叱られる。(不思議なシステムである。この時はまだ級長は任命制(選挙ではない)だった。)
軍国主義から民主主義に変わったので、ソフトは劇的に変った。先ず、登校時に独りで行ってもよい。夏休み前は常に団体行動で、一人で学校に行くと、自分の属する分団が未着ならその場に直立不動で待たされるし、既に到着していれば分団長が呼び出されて、週番から衆人環視のうちに鉄拳制裁を加えられる。ところが10月以降は、分団は強制されないし、一人で行動してもよいし、到着報告も、奉安殿への最敬礼もないし、帰りも道草が出来る。教育勅語がなくなって、修身の授業も3学期から無くなった。不適当な処を墨で塗りつぶした教科書(国語)、2年生からは大きな藁半紙に印刷された教科書を自分で切って、麦飯の中の米粒を拾って、張り合わせて使った。ノートは無いので石盤をつかった。石盤は、粘板岩の薄板に木の枠をつけて、石筆で文字を書く。せっかく丸を貰っても、次の授業ではそれを消さなければ使えない。欠点は石盤は直ぐ割れること。悲劇は良く起きた。明治生まれの伯母が「昔に戻ったね」と感慨深げだった。
山本由宇呆氏は現在87歳(昭和13年生まれ)、「我々より年長である方々にとっては、同様な体験があるはずで、決して特別な体験とは思っていない。ただ思い出して頂くもよし、それ以下の年代の方々には、そんなこともあったんだと、認識を新たにして頂ければ嬉しい。」とコメントされています。
