父の復員
父が何時頃復員してきたのか、この記憶だけはひどく曖昧である。
幸い私の家は焼け残ったし、伯父、伯母、母とも生き残ったし、食料は米どころの富山平野のど真ん中で、伯母が元農家の出で、昔取った杵柄、近所の農家の手伝い(田植え、田の草取り、稲刈りなど)をして米を分けてもらってきたりして、戦時中に比べて何とかなっていた。父が未だ戦争から帰って来ないでいることを除いては、一人っ子の惣領の甚六は毎日本当に気楽に過ごしていた。その日、私は疾うに寝ていたが、真夜中過ぎた頃に突然家中が騒がしくなり、何となく聞き覚えのある声がするような気がして眼が覚めた。
コタツの上の薄暗いローソクの光を囲んで、伯父と間借りしていた藤村さんと後姿がソレと判る父が、ほぼ2年に亘る長い長い話をしている。何時の間にか私も、蒲団から半身を起して聞き入っていた。それに気付いた父が振り向いて「おぉ、起きたのか」と声をかけたが、照れくさい私は何も言わず、直ぐ蒲団をかぶって横になってしまった。大人たちは直ぐ話に夢中になり、私も聞きたくて聞き耳を立てていたが、何時しか眠ったらしく、眼が覚めたら明るくなっていた。父はもう起きて庭に出ていたが、「どれ、肩車をしてやろう」と言って私を担いだ。「重くなったなぁ」と満足げに言った。思えば出征の前の日も私を肩車したまま、なかなか下ろそうとしないので、早く下ろしてとダダをこねたのを、思い出していた。35歳で、いよいよ戦地へ行くと決まった日、ひょっとするとこれっきりだと思ったのかも知れない。
新しい学校・学制改革
昭和20年10月の新学期から、先生の態度がガラッと変った。以前ほど叩かれなくなった。大声で頭ごなしに叱ることも少なくなった。これからは世の中は民主主義ですと、再三話すのだが、子供はそんなことは理解できない。実は先生も良く分かっていなかったというのが、本当のところだったろう。昭和21年4月、焼け跡に建った新しい学校に移った。今思えば、プレハブの掘っ立て小屋だったろう。教室が足りないので、123年生が午前、456年生が午後という2部授業である。11時頃になると、午後の部の上級生が窓の外に群がって、授業中の先生の質問に答えてしまって授業にならない。民主主義ということで先生が優しくなったのを良いことに、いたずらがエスカレートする。自分が優位に立つと嬉しいという人間のエゴはこんなところにもあるもの。年表を見ると、その年の10月に文部省の男女共学指令が出ている。我々は一年生からそのまま男女共学だったから違和感はないが、我々の上の学年からは、男子組、女子組、男女組と別れていたから、元男子組だった児童は、女子の口答えが生意気だといっては殴ったり、スカートめくりがエスカレートしたり、いろいろあったようだが。
昭和22年4月、校舎の建て増しが終わって、2部授業が終わった。新しい門柱に掛けられた「富山市立奥田小学校」という真新しい木札が目に痛い。前年度までは「國民學校」だった。学制改革、いわゆる6・3・3制であった。
山本由宇呆氏は現在87歳(昭和13年生まれ)、「我々より年長である方々にとっては、同様な体験があるはずで、決して特別な体験とは思っていない。ただ思い出して頂くもよし、それ以下の年代の方々には、そんなこともあったんだと、認識を新たにして頂ければ嬉しい。」とコメントされています。
