ぬかる道巻頭言コラム

【『ぬかる道』第441号 巻頭言】
『「効率主義」を斬る』

ぬかる道巻頭言

巻頭言『「効率主義」を斬る』

江畑哲男

刺激的なタイトルを久々に使ってみた。ほんわり・やんわりの巻頭言がこのところ続いたので、まぁまぁお許しいただこうか。
世の中、やっばりどこかおかしい。そんな気がしてならない。その一つが「効率主義」。現代的な用語を用いれば、「タイパ」「コスパ」といったところか。

タイトルに惹かれて読んだ本

『なぜ「若手を育てる」のは今、こんなに難しいのか』(古屋星斗著、日本経済新聞出版)。この本、意外と面白かった。切り口が新鮮だった。
誰にでも「思い込み」というのはある。とりわけ高齢者はその思い込みが激しい。新聞やテレビなどのオールドメディアに日ごろさらされていると、「思い込み」に加えて先入観念までが植え付けられてしまう。しかも、知らず知らずのうちに入り込んでしまうから厄介だ。
最初の問題提起は下記だった。
《残業を減らして、有休を取ってもらって、労働環境を改善すれば、若手社員は定着してくれる、はず。》
同著曰く、さに非ず。「思い込み」とは違う結果が出てきた。じつは、「職場がゆる<て辞めたい」という若手が少なからず存在している、のだそうな。
たはははは。愉快・痛快、爽快!気骨のある若者もいたのだ。やっばり、若者はこうでなくっちゃ。
右データを裏側から解説すれば、「骨のある若者ほどやり甲斐のある厳しい職場環境を求めている」ということになる。だとしたら、若者もまだまだ捨てたもんじゃない。
考えてもみよう。
《仕事が楽ちんで、休みも取りやすい。失敗なんかも全部許されて、みーんないい人。しかも、お給料が高い!》
そんな職場、あるわけないだろ!あったとしたら……、奇跡。まぁ、すぐにつぶれるでしょうね(笑)。
ゆるい職場環境で、人間的成長はできるのか?スキルアップは可能なのか?何より生き甲斐・働き甲斐が持てるのか?まともな若者、志ある若者なら、逆にそんな職場は自分の方から見限ってしまうのではないのか。

「思い込み」の呪縛から脱しよ

つまりは、「思い込み」とはこういうこと。見渡せば、「思い込み」の事例は少なくない。何となく「思い込まされている」場合も含めて、たくさんあるに違いない。
小生が日ごろ疑問に思っているのが、少子化問題の解決方法である(川柳界にとっても、日本全体にとっても、現下最大の難問はコレ)。上記のような「思い込み」の論理がオールドメディアでは絶えず垂れ流されている。
《若者は収入が低い。非正規雇用も多い。生活が苦しい。だから、子どもは産ま(産め)ないのだ。》
……、果たして、そうか。本当にそうか?金がないから子どもを生まないのか?逆に言えば、金銭的に満たされれば、少子化問題は解決するのか?否、であろう。
ベビーブーム時代を想起すれば、答えは簡単だ。この種の「思い込み」は間違いだとすぐに気がつく。
日本のベビーブームは、昭和22年ー昭和24年に起こった。三年間の出生数は250万人超。250万人超という数字は、現在の出生数の約3.1倍になる。
終戦直後の日本は、ご存知のとおり。仕事も、食べ物も、お金も、住む家もなかった。大多数が貧しさの極限のなかで暮らしていた。それでも、みんな結婚して子どもを産んだ。収入が少ないから、仕事が安定しないから、子どもを産まないという選択はしなかった。現代風の「損得」勘定とは真逆のところに、事実は横たわっていたのだ。
むろん、避妊が一般的でなかったという時代背景も視野に入れねばならないが、それでも子どもを産むことに躊躇はなかった。堕胎も一部に見られたが、圧倒的な日本国民は貧しさのなかで「産んで育てる」という選択をしたのである。「団塊の世代」と呼ばれる人たちはこうした環境下で生まれ育っていった。
もしかしたらこのあたり、川柳の「発想の転換」と共通する部分があるやも知れぬ。句を創る時に、固定的な先入観からどうやって脱け出すのか?参考になれば幸いだ。

忙しい時ほど読書をした

少子化に関わって、一点補足。明治期の外国人が洩らした感想。日本人ほど子どもを大切にする民族を見たことがない、と。そんなDNAが、日本(人)にはあった。
話を「思い込み」に戻す。
もう一冊、興味深かった本がある。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆著、集英社新書)。前述の「思い込み」とよく似た論考があった。「時間がないから本が読めない」。……ならば、「ヒマになったら本を読むようになるのか?」と。実際はそうではなかった。
貧しいから本が買えなかった。生活に追われていたから、本が読めなかった。一般的にはそう「思い込み」たくなるのだが、事実はそうではなかったのだ。
戦後、人々は活字に飢えていた。印刷事情も紙質も悪い中で、本を読みあさった。お金がなくても、食べる物を削ってまでも、日本人は活字を追い求めたのである。
高度経済成長期も同様だった。モーレツなサラリーマン生活の中でも、じつに多くの本を日本人は読んでいた。
今日、本はいくらでも読める。安価で流通事情も良好で、読書する人への配慮は至るところに見られる。図書館はどんな本もほぼ借りたい放題。驚くなかれ!千葉県ではついに電子書籍サービスも始まった(五月末)。オンラインで本が読めてしまうのだ。こんな恵まれた環境にあっても、読書離れは止まらない。出版不況も長い。とほほほほ。

「学問に王道なし」

ことわざには真理がある。川柳の世界や習いごとの世界と共通する真理もたくさんあるだろう。効率を求めて、すぐに上手になろうと思っても川柳の上達は覚束ない。安易さを求めてはイケナイ。タイパ・コスパ流行りの昨今だが、文芸の世界は違う。もしかしたら、「無駄の集積」が文芸なのかも知れぬ(笑)。だとしたら、それも一興かも。
……おっと、ペンはココまでで留めておく。これ以上書くと〈昭和的思考〉と一蹴されそうだから。
書籍ではないが、いま東葛川柳会のホームページが充実している。特に、「台湾第一回日語川柳コンクール」は必見の価値あり。どの会のHPよりもいち早くアップした。情報面では〈速報性〉を売りにするのが東葛川柳会だ。