遊人のユーモア・エッセイ

饂飩

遊人のユーモア・エッセイ

あちこちで打ち立てうどんのお店ができている。味も本場の讃岐うどんに劣らない。どうやら、うどんの逆襲が始まったようだ。

今まで、うどんの立場は弱かった。どこか惨めささえも漂っていた。蕎麦はルチンたっぷりの健康食品、うどんは塩分が多く高血圧には大敵とまで言われてきた。
饂飩と言う立派な名前を持ちながら、一向に風格が感じられない。志ん生の「宿屋の富」に、おもしろいくすぐりがある。五百両の富の番号が発表されようとされている。皆が緊張する場面、札を持っている貧乏人が言う。「五百両当たったら、なじみの女郎を身請けする」それで、「当たらなかったら」と聞かれると、「その時は、うどんでも食って寝ちまおう」

その点、蕎麦は元気が良い、姿が良い、万事いなせである。年の暮れには、年越し蕎麦といった晴れ舞台も用意されている。麺類クラスでは、うどんは間違いなく、いじめられっ子に違いない。蕎麦は別格である。眉目秀麗、文武両道の超優等生である。素麺や冷麦も、多少軟弱さはあるが、ほっそりとした姿、形に爽やかさが漂い、これもクラスの人気者。時々、長崎の方からチャンポンなども転校してくるが、持ち前のちゃらんぽらんな性格で、直ぐに皆と馴染んでしまう。海の向こうから冷麺なども留学をしてくるが、これも生来の腰の強さと腕力で目だってしまう。こうなると、当然、いじめはうどんに集中する。

うどんも、ときどき、こんなことではいけないと考えることがある。「うどん、ここにあり」といったことを世に示さねばとあせったときもあった。一度、挑戦をしてみた。「焼きうどん」だ。うどんの新しいイメージ、新鮮、フレッシュ、流行のミスマッチと色々宣伝してみたが、あまりうまくいかなかった。今は、田舎のスナックで、年に二、三回、お呼びがかかる程度である。

仲間の一人は、一向にうだつのあがらない東京に見切りをつけて、秋田に流れていった。思いっきりシェイプアップをした。秋田美人にならい、色白にもなった。でも、うどんという名前からは抜けきれなかった。秋田名物、稲庭うどんだ。酒のあとの軽い食べ物としてはかなりいける。これ以上になれないのが今のところの悩みである。名古屋に流れた仲間もいる。姿かたちを変えた。名前もきしめんと変えた。これだけ変えても、その正体がうどんであることを隠し通せなかった。でも、名古屋ではけっこうもてはやされているらしい。

...と、ここまで書いてきて、はたと思いついた。(鍋焼きうどんがあるじゃないか)これこそ、うどんの王道、うどんの至芸。うどんの悪口を言った罪滅ぼしにと、鍋焼きうどんを注文した。出てきた鍋焼きうどんをあらためて見て、ちょっと考え込んでしまった。(これって、名前はうどんがついているけど、主役は海老のてんぷらであったり、蒲鉾だったり、卵焼きであったり、ねぎだったり、はたまた奥に潜っている鳥の笹身じゃないの)うどんは下でこれらの主役を一生懸命に支えているだけのこと。鍋の中からうどんを引っ張り出してみた。やっぱりそうだ。頑張りすぎて、こんなにくたくたになっている。鍋の底には焦げたうどんが数本へばり付いている。自分の身を焦がし主役の引き立てに徹している。

こんなことを書いているあいだにも、近辺には讃岐うどんのお店が次々と開店している。どうやら関東一円讃岐化計画も着々と進んでいるようだ。これだけの言われ無き差別に耐え忍んできたうどんである。その底力は恐ろしい。果たして、他の麺類がうどんの総攻撃に絶えられるか心配だ。スパゲティイとラーメンを主力とした多国籍軍の援軍を頼まなければならないかもしれない。

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