よく仕事で海外に出かけていた頃、習慣にしていたことがあった。それは、三時間前に空港に着き、財布の中の国内向けクレジットカードを海外向けに差し替え、そして食事をすることである。
別にお腹がすいていたわけではない。でも、これには重要な意味がある。海外向けのクレジットカードが使えることを日本で確認しておきたいためだ。海外で一度、何かの理由で、カードが効かない時があった。支払いは現金があったので問題は無かったが、ホテルに滞在している間ずっと怪しげな日本人と監視されていたような気がした。
シンガポールに行くために、成田空港に着いたときのこと。習慣に従い、レストランに入る。隣の席は、中年の男、五人連れ。雰囲気からして明らかに仕事では無い。かといって学術研究のための調査団でもなく、政府間交渉に向かう団体でもなさそうだ。もうすでに宴会状態になっている。テーブルの上にはビール瓶が林立し、その隙間に日本酒とかウイスキーが見え隠れしている。
その中で、比較的旅慣れていると思われている男が、大きな声で説明をしている。この先しばらくはあまり面白いことがない、税関を通り、飛行機に乗り、暫く飛んでから、また現地の税関を通り云々と言うことを、一生懸命に話している。つまり、ここで沢山飲んでおくこと、酔っ払っておくことが、いかに彼らの旅にとって重要であるかを言いたいようだ。後の四人はこれに全く賛同し、水割りダブルとかお酒もう一本の注文が続く。
もう一方の隣は頭のはげたアメリカ人一人と、日本人ギャル二人の組み合わせ。中華風朝粥定食で盛り上がっている。
でも、会話を聞くとどこかおかしい。アメリカ人は「俺ってさ、つくづくラッキーて思うわけ。ほら俺って、いつも帰るのはエコノミーのディスカウントじゃん。でもこの前、航空会社の手違いでエコノミーが満席でファーストクラスに乗せてもらったんだぜ。超ラッキーじゃん。今度そうだと良いんだけど、それって無いよね」と言うことを英語でしゃべる。
これに対し日本人のギャルは「うそー」「すごいー」とか「無い、無い」とか日本語で答える。日本人ギャルの言うことにはアメリカ人は「Oh, my god.」とか「You did.」とか英語で答える。つまり英語には日本語で反応し、日本語には英語で反応し、なおかつ、この会話が非常に和気藹々と盛り上がっている。
初春の朝九時、日米親善三人組の英語、日本語チャンポン会話のハイテンション振りに、あのバベルの塔の神の企みはあえなく挫折してしまっているようだ。