富山空襲始まる
「富山市の昭和20年8月2日午前0時」
点けっぱなしの家の中のラジオが「JOIG(富山放送局のコールサイン)、これから、午前零時をお知らせします。」と言って、「ピッ、ピッ、ポーン」という時報と同時に、「バリバリバリ、バガ―――ン」と、ラジオと生の音とがステレオで聞こえた。一瞬後に、傘の周りに暗幕を垂らした40燭光の電灯が消えた。「放送局と変電所が、やられた」と、伯父が叫ぶ。5分も経たないうちに、市の中心部は、火の海に、そして火柱が高く上った。市街地からほんの少し離れた我が家の周りの水田に、焼夷弾が落ち始めたらしい。軟らかい水田に落ちた焼夷弾は、油脂が飛び散らず発火しない。由宇呆少年は、ひたすら防空壕にモグッて、恐いもの見たさに空を眺めている。「あぁ、また落とした」伯父が呟く。あまり離れていない伯父の会社(帝國繊維)に、火の手が上った。「俺は会社に行って来る。皆逃げろ」そう言い残して走っていった。庭に一発落ちた。一坪ぐらいに火の手が上った。伯母は「逃げな」と叫んで、大バケツを提げて、裏の小川へすっ飛んでいった。「さ、行くよ」と声をかけて、母は後ろも見ずに走り出した。あるだけの教科書とノートを入れたランドセルを背負って、由宇呆少年は、遅れないように走った。母がこんなに早く走れるとは、今まで知らなかった。
伯母の奮闘……焼夷弾を捩じ伏せる
我が家の周りに落とされた焼夷弾は、長さ約30cm、直径約5cmの6角形の缶詰にべとべとの油脂が詰まっていて、凧のシッポみたいな幅広のベルトが付いている。このベルトは落ちる途中で摩擦熱で発火したまま落ちてくる。少し堅い道路やコンクリートなどに落ちると、反動で上蓋が飛んで、中の油脂が飛び散り、2メートル四方を火の海にする。私が逃げだそうとしたとき、目の前の庭に一発落ちた。伯母は裏の用水路に、バケツを持って吹っ飛んでいった。私はもっと見ていたかったのだが、母が、凄い勢いで走り出したので、後に続いた。後で考えると、母と伯母は、伯母は家を守り、母は後継ぎである総領の私を守ると役割分担を決めていたのだろう。その時、言い争いや無駄口は、一切なかったから。
暫く伯母の話。バケツ一杯目では、火の勢いは変わらず、二杯目で少し弱くなり、三杯目でやっと消えたという。一発目が消えたと思ったら、二発続けて落ちてきた。一つは家の反対側の表玄関の前、一つは、二軒長屋の隣の縁側の軒先を突き抜けて、家の直ぐ近くで火の手を上げた。隣はこの時期空き家で、隣も伯母の守備範囲だった。コチラを先に消火してから、玄関前に回ると、周りに燃えるものがなかったので、すぐそばの防火用水の水をバケツ三杯叩きつけると、直ぐ消えた。多分それから20分ぐらいしてからだと思うが、また二発落ちた。いずれも庭だったので、助かった。
山本由宇呆氏は現在87歳(昭和13年生まれ)、「我々より年長である方々にとっては、同様な体験があるはずで、決して特別な体験とは思っていない。ただ思い出して頂くもよし、それ以下の年代の方々には、そんなこともあったんだと、認識を新たにして頂ければ嬉しい。」とコメントされています。