B29の贈り物

「B29の贈り物」④

B29の贈り物

逃げる

庭先に最初の焼夷弾が落ちた時、物凄い勢いで走り出した母の後を、必死で追いかけているうちに、下駄の鼻緒(前緒)が切れた。思わず立ち止まった私を、母が怒鳴る。「何やってるの、早く来い!」我に返ると、直ぐ身のまわりに、ドバッ、ドバッと、火の花が咲く。頭に直撃を受ければ即死だ。防空頭巾の上から、防火用水の水をたっぷり含ませた重い夏蒲団をかぶって、裸足で走った。ケムリの薄い方を選んで、街の中心から離れるようにコースを取って。ある路地で、轟音に気付いて見上げると、路地の空いっぱいにB29のぱっくり開いた腹から、黒い塊がバラバラと落ちた。次の瞬間、その一つ一つが無数の小さな物に分かれて、直ぐに火がついた。今思うと花火の枝垂れ柳のように。しかし、この枝垂れ柳は消えないで落ちてくる。母も直ぐに気付いて、その枝垂れ柳の下から遠ざかるように逃げるコースを変えた。30分も走ったろうか、母と私は、街の中心からかなり離れた一寸した丘の上にへたり込んでいた。目の前の水田を隔てて、富山の街が燃えていた。それまで火事なんて見たこともなかったし、ましてや、人口15万の街が一度に燃えるなんて。いつの間にか、嘘みたいにシンと静まり返った空。家はどうなったろう。伯母は。伯父は助かったろうか。家族が皆死んで、一人になったときは、隣組の組長さんの所へ行く事。その時は、服の胸に縫い付けてある名札の本籍地へ、連絡してもらう事。母からいつも言い聞かされていることを反芻しながら、そばに母が居る事にホッとしていた。

焼夷弾焼のジャガイモ

夏の夜明けは早い。田んぼの畦に腰を下ろしてボウッとしてたら、明るくなってきた。「さあ、帰ろう」気丈な母は、手拭いを裂いて下駄の鼻緒を私にすげさせた。「自分のことは、自分でしなさい」母の口癖で、2年保育の幼稚園へ入園した時から、何でもやらされた。お陰さまで、器用貧乏が板についてしまったが。閑話休題、歩き出すと、とたんに腹が減ってきた。毎日、配給の薩摩芋(農林一号、茨城一号など)ばかり食っていて、夜中からマラソン並みに二時間も走り回って、水筒の水もなくなってしまった。道端の主家が半焼けの農家で、水を恵んでもらって飲んだ。因みに、富山平野の井戸は、掘り抜きの自噴である。竹の節を抜いて、3mも打ち込むと水脈に達して自噴する。この水は、一年中温度も、噴出量も変わらない。旨いなぁと思うと、ますます腹が減って来た。良い匂いまでしてきた。匂いのやって来る方を見ると、その農家の納屋が丸焼けになって、納屋の地べたに転がしてあったジャガイモが焼け焦げて、殆ど真っ黒こげなのだが、丁度食べ頃になったのが良い匂いを運んで来たのだ。農家のおかみさんが、焼け出されてみすぼらしく見えたであろう私に、食べ頃に焼けたのを二つくれた。大きい方に夢中でかぶりついてから、ふと気付いて、もう一つを母に差し出した。「親に孝行」を修身で習ったばかりだったから。「いいから食べな」と、母は受け取らなかった。母とは、この二年後に死別するのだが、この時無理にでも、ジャガイモを母に食べさせておけば良かったと、今でも思う。

山本由宇呆
連載コラム「B29の贈り物」について
本稿は 東葛川柳会の『ぬかる道』誌(2005年9月~2007年9月)に24回にわたって連載された「由宇呆少年の戦争と平和」を抜粋し、若干の補筆を加えて2023年7月にUFO書房より発行された「B29の贈り物(由宇呆少年の戦争と平和)」を転載したものです。
山本由宇呆氏は現在87歳(昭和13年生まれ)、「我々より年長である方々にとっては、同様な体験があるはずで、決して特別な体験とは思っていない。ただ思い出して頂くもよし、それ以下の年代の方々には、そんなこともあったんだと、認識を新たにして頂ければ嬉しい。」とコメントされています。