B29の贈り物

「B29の贈り物」⑥

B29の贈り物

後れて来た終戦

私のニュースソースはお隣の同級生の洋子ちゃん。彼女の長兄は旧制富山高校(現富山大学)の学生、次兄は富山薬専(現富山大学薬学部)の学生、三兄は同じ国民学校高等科の超秀才。広島、長崎の新型爆弾も何日か後れて、耳に入った。たしか、8月20日頃だったろうか。前ほど外で遊ぶなという言われ方をしなくなったのを幸い、彼女と並んで大きな夕日が沈むのを見ていた時、「戦争はどうなるんだろう」と呟いたら、「戦争終わったよ」と、答えが返ってきた。「エッ」と言ったきり、しばらく彼女と夕日を交互に見ていた記憶がある。【戦争が終った。】ふいに、国民学校入学の翌日に、「皆さんも三年生になったらやるんです」と見学させられた軍事教練の様子が頭に浮かんだ。勘の鈍い奴が配属将校に往復ビンタされる姿が、強烈なストレスとなっていたが、それがすっ飛んで怖いものナシになった。狭い視野しか持っていない子供がこんな感じだったんだから、大人はどうだったんだろう。この時まで、母も伯父も伯母も何時もと変らず、生活も変わらなかったのだが、(実は変っていたのだが、私が気付かなかっただけなのかも)その日の夕食(薩摩芋の)の時に、「ニッポンは負けたの?」と、思い切って聞いた私のヒトコトで、皆吹っ切れたようだった。暗幕のカーテンが取り外され、ガラスに貼った細い紙(爆風で割れても、飛び散らないように和紙で縦横斜めに貼った)を剥がすのが、夏休みの宿題になった。

焼け跡のお客様

空襲から五日ぐらいの頃、朝起きてみると庭の大根畑に白い影が走った。大して広くない庭だが、当時は何処でも自給自足のため庭に野菜畑は常識だった。これがないと非国民で、隣組に入れなかった。大根の葉陰に眼だけ光らせて、薄汚れた白いかたまりがこっちを伺っている。赤い紅絹の首輪に小さな鈴を付けた猫であった。ペットなんて近所にいなかったので、お近づきの方法が判らなかったが、母が薩摩芋を潰して鰹節を混ぜたのを皿に出すと、よほど空腹だったのだろう、「ニャぁニャぁ」と、お愛想を言いながら、猛烈に食べた。空襲のとき抱かれて逃げたのだが、この近所で焼夷弾に怯えてご主人とはぐれたのだろう。食い物が一番のご縁で、この日から我が家の猫になった。伯母が体を洗ってやると、嫌がらずに大人しくしていたのは、余程大切にされていたんだろう。名前が判らないので、私の口笛に反応するようになった。確か十月に入った頃、上品なご夫婦が尋ねてこられた。この辺で白い猫を見なかったかという。縁側の庇の先に葺いたドラム缶の風呂場のトタン屋根の上が彼女の居場所だったが、勢い込んで吹いた私の口笛にタダならぬ気配を感じたのか私の腕に直接飛び込んできた。いつもはゆっくりと降りる彼女のルートがあるのに。ご対面は感動的であった。喉を鳴らしながらにゃぁにゃぁ啼くという芸当は、この時見たきりである。では有り難うとご主人が向きを変えると、啼きながら私の方に前足を出してもう一度抱けと催促である。こんなお愛想が出来る猫はその後会った事がない。

山本由宇呆
連載コラム「B29の贈り物」について
本稿は 東葛川柳会の『ぬかる道』誌(2005年9月~2007年9月)に24回にわたって連載された「由宇呆少年の戦争と平和」を抜粋し、若干の補筆を加えて2023年7月にUFO書房より発行された「B29の贈り物(由宇呆少年の戦争と平和)」を転載したものです。
山本由宇呆氏は現在87歳(昭和13年生まれ)、「我々より年長である方々にとっては、同様な体験があるはずで、決して特別な体験とは思っていない。ただ思い出して頂くもよし、それ以下の年代の方々には、そんなこともあったんだと、認識を新たにして頂ければ嬉しい。」とコメントされています。