ぬかる道巻頭言コラム

【『ぬかる道』第457号 巻頭言】
『釧路と石川啄木』

ぬかる道巻頭言

巻頭言『釧路と石川啄木』

江畑 哲男

はたらけど
はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならさり
ぢっと手を見る

「国民的詩人」と言われた石川啄木(明治19ー明治45)の短歌である。啄木の作品の中では最も人口に膾炙した短歌の一首であろう。
この短歌に代表されるように啄木はいたって真面目な青年で、一生懸命働いても生活は少しも楽にならなかった。明治に始まる近代は、ナント理不尽な国家であったことか。後年、啄木が社会主義に傾斜していったのも頷ける。

……上のような石川啄木論が少なからず流布されている。純粋な文学少年であった小生も、こうした見方に翻弄された時期があった。しかし、文学者の実像というのはそんな甘く単純なものではない。

東北海道川柳大会(於釧路)に参加して

9月21日(日)、北海道は釧路市で開催された「令和7年第62回東北海道川柳大会」に小生は参加した。昨年の北海道川柳大会では皆さんに大変お世話になった。そのご恩返しの意味を込めての今回の参加であった。

大会当日の天候は最悪だった。この地方初の線状降水帯に襲われ、交通機関が麻痺してしまうという不測の事態に見舞われた詳細は、本号『ぬかる道』の短信欄36ページ、本ページ下記に転載)に譲って大会の様子は割愛する。御免なさい。

さて、その釧路。石川啄木の足跡を訪ね歩こうと計画を立てた。小生にはかねてから抱いていた疑問があった。

その疑問。石川啄木の在釧路期間は、わずか二カ月半ほど(明治41年1月21日〜明治42年4月5日)。

さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき

啄木が最果ての駅=釧路に降り立ったのは、明治41年1月21日の夜だった。当時の釧路町は人口1万5千人ほど。旧藩領時代から漁場として栄え、隆盛を極めていたという。そこに鉄道が開通した。釧路に降り立ったのは、釧路新聞社の記者として着任するためであった。

その釧路を啄木が離れたのが同年4月初め。出航待ちの日々を足しても、釧路で暮らしたのはわずかで76日にしかならない。短い!

にもかかわらず、である。釧路市は石川啄木を大々的にPRし、市内には歌碑や記念碑が約30カ所も存在する。町おこしや観光誘致といった側面を割り引いたとしても、啄木への肩入れが過剰過ぎるのではないか?そんな疑問を抱きながらの訪釧であった。

小奴といひし女の
やはらかき
耳染(みみたぼ)なども忘れがたかり

色っぽい短歌だ。十代前半の小生にこの歌の意味は分からなかった。分かるようになったのはモチロン後年。

わが室(へや)に女泣きしを
小説のなかの事かと
おもひ出づる日

啄木は当時22歳。家族を残しての単身赴任だった。事実上の編集長待遇で迎えられたという。

当時、ローカル新聞というのは一種の「政治的使命」を帯びていた。地元の町長や名士らと会い、厚くもてなされた。明治の新聞は主観丸出しOK。書きたいことを自由に書けた。天才・石川啄木が舞い上がって、花柳界に入り浸り、羽目を外す結果になった背景も分からないではない。

石川啄木の「ビョーキ」

その啄木がなぜ釧路を離れたのか?啄木研究家によれば、一種の「ビョーキ」が指摘されている。

すなわち、東京病(=文学的野心)、上司への不満、数多の借金、加えて複雑に入り組んだ女性関係もあった。
借金一つ取り上げてもその実態がヒドい。小生の計算では現在の200万円をはるかに超える額に上っている。
借金先は、会社関係や友人、下宿の未払い、病院、料亭等々である。釧路を離れるに際して、借金を返したという記録はないから、すべて踏み倒したことになる。いやはや呆れるより、その豪胆さはご立派!(笑)である。

文学者はこうでなくてはイケナイ⁉︎ 明治という時代の雰囲気とスケールの大きさに圧倒されるばかりだ。

他方、仕事という尺度で俯瞰してみれば、釧路時代の啄木が一番充実していたという。社会問題に目覚めた啄木は釧路で「婦人解放論」などを熱っぽく語ってもいた。
単身赴任で、妻子と母は小樽に残してきた。その家族に啄木は一銭も仕送りをしなかったという。それゆえ、残された家族は極貧にあえいでいたのに、である。

以上、天才歌人・石川啄木の理想と現実、表と裏。偽らざる彼の実像である(参考文献:鳥居省三著『増補・石川啄木その釧路時代』釧路新書、釧路港文館HP ほか)。

楽しみました、釧路行

さてさて、楽しかった釧路行の成果を列挙する。

  1. レンタカーの旅。釧路湿原、釧路湿原美術館、阿寒湖と回った。北海道はでっかいどう。国道沿いの看板「シカの飛び出しに注意!」が、あちこちに掲げられていた。
  2. 釧路文学館。事前にアポを取っていたせいもあって、丁寧にご対応いただいた。秋里喜久治館長ほかスタッフの皆さんから歓迎され、行き届いたご説明を頂戴した。同館企画の「酔っ払い川柳」では楽しく意見交換。わが『ぬかる道』誌を書棚に見つけて感激!お世話になりました。
  3. 本行寺。歩き疲れて、ようやくこの寺にたどり着いた。そんな小生の様子をすぐに見て取って、ご住職の大奥様らしき方からお茶を出していただいた。ほっと一息。生き返った心地。しばらくして堂内の「石川啄木記念室」を堪能する。ご馳走さまでした。

話題一転。『俳句界』(発行:「文学の森」) 6月号の「特集:未来の結社はどうなる?」が興味深かった。
俳句界も大変だ。「高齢化」「赤字」「後継者難」という三重苦に苦しんでいるという。川柳界と全く同じ⁉︎
『麒麟』主宰の西村麒麟という俳人がズバリ書いている。

最も文学から遠い金勘定のストレスに耐えることが主宰には求められます。
けだし名言と言うべきか。

赤字に悩む『ぬかる道』。我々川柳人もことお金に関して、石川啄木のような「鈍感力」を身につけないといけないのかも知れぬ。いえいえ、むろん冗談ではあるが。

短信より
9月21日(日)、「令和7年第62回東北海道川柳大会」が釧路市内のホテルで開催された。主催は東北海道川柳連盟(高橋みっちょ実行委員長)。江畑哲男は昨年の北海道大会(小樽)での御礼も兼ねて、「無役のままで良いから」と参加の意向を事前にお知らせしておいた。
大会当日の天候は最悪だった。会場のある釧路十勝管内は道東初の線状降水帯に見舞われ、交通機関がすっかり麻痺してしまった。そうした悪条件の中でもしっかり開催。しかし、スタッフの皆さんは悠然と構え、一部予定をずらしながら無事大会を終えた。
なお、江畑哲男は「私の一句を語る」というコーナーに出演をさせていただいた。