妹の誕生
小学2年生の時、妹が生まれた。長い間、一人っ子として育てられたので、兄弟喧嘩の経験がなかったし、赤ん坊をどう扱っていいものか、判らなかった。珍しい生き物みたいな思いで、飽かず眺めていた思い出がある。赤ん坊の成長は早い。しばらく経って首が据わると、是非負ぶってみたくて、せがんで背中に括りつけてもらった。温かくてこちらもいい気持でいると、案の定小便やら、大便やらで、背中が汚れた。でも、不思議に汚いとは思わなかった。這い回りだすと眼が離せない。監視役は私がいる時は私がしていたようだ。子供は子供同士、妹もまつわり付いてきて、私が机に向かっていてもお構いなし。年が違いすぎるので、小突くわけにもいかない。結局良いお兄ちゃんを演じ続けて、疲れるばかりだった。でも初めての兄妹、余程嬉しかったんだろう。よく負んぶして、子守と言えるかどうか判らないが、家の近所をぐるぐる回った覚えがある。その頃、私は兎を飼っていたが、兎を見せると大喜びで、自分でも触りたがった。でも、日課の餌の草刈には妹は連れて行かなかった。背中に荷物があると、自由に鎌を振るのが難しかったから。
この頃、少年朝日という二週間置きに発行される雑誌に夢中になった。礼文島の金環食が記事になっていたし、湯川英樹博士の中間子理論のノーベル賞受賞もこの本で知った。
父母、妹との別居
昭和22年春、小学校の増築が終わって2部授業から開放された頃、伯父と父の勤務先である大正製麻富山工場の閉鎖が本決まりとなり、伯父は工場閉鎖の仕事のために富山へ残り、父は栃木県鹿沼の関連会社へ就職のため、転居することになった。終戦から一年半ほど経ったが、まだ世の中は貧しく、住宅事情が貧弱であるため、父母と妹(赤ん坊)だけが鹿沼へ移り住むことになり、私は伯父夫婦と一年の予定で富山へ残り、今までどうりの学校へ通う事になった。妹と別れるのは寂しかったが、そこは惣領の甚六、余り深刻に考えることなどなく、新しい学校に夢中になっていた。
時折、進駐軍(米軍)のジープが学校に乗り付けてくる。カーキ色の長い脚が低い扉をスッとまたいで、カッコよく降り立つと、子供たちがワッと取り囲む。ガム、ハーシーチョコレート、など、心ない米兵はばら撒くことがある。勝ったと思っていい気になるな。こんな思いを腹にしまって、見て見ぬ振りをする。卑屈な、気の弱い少年であった。
卓球台を各学校に配置したので、利用状況を視察に来るという事があった。利用状況を見せるためには、使って見せればよいと考えた校長は、体育の先生に視察の米兵とプレイしろと急に命令した。たまたま、私も見に行ったら、写真に撮るので観客にさせられた。体育の先生は、コチコチになって、一本も入らないで、ラリーにもならなかった。
山本由宇呆氏は現在87歳(昭和13年生まれ)、「我々より年長である方々にとっては、同様な体験があるはずで、決して特別な体験とは思っていない。ただ思い出して頂くもよし、それ以下の年代の方々には、そんなこともあったんだと、認識を新たにして頂ければ嬉しい。」とコメントされています。
