鹿沼での夏休み
昭和22年夏休み(小3)、7月末から8月のお盆過ぎまで、鹿沼の父母のもとで過ごした。畳の部屋は六畳間と玄関の二畳しかなく、継ぎ足した物置みたいな板張りに筵を敷いた三畳間に私は寝せられた。家は鹿沼町(現鹿沼市)を貫く黒川の堤防の直ぐ下で、土手を越えると直ぐ河原で、少し下手に堰があり一番深いところで1m50センチ、子供たちの絶好の水泳場だった。近所の五年生のガキ大将に水泳のイロハを教えてもらって、真っ先に「潜り」を、次いで「高飛び込み」「犬掻き」「抜き手」「クロールの息継ぎ」「背泳ぎ」そして「古橋の6ビート」を覚えた。今思うと、二週間ちょっとで凄い特訓だったのが分かる。また、遊びも「白石取り」「水中鬼ごっこ」「置き針」など、川遊びに長けた先輩だった。当時のガキ大将は、こんなに面倒見が良かったのである。しかも初めて川遊びに加わった連中を、まとめて世話したのだから凄い。当然喧嘩の仲裁なんかお手の物。苛めの入り込む隙間なんかなかった。毎日の日課は、午前中は昨日の絵日記(藁半紙を綴じたのへ勝手気ままに書くのである。)を終わらして、昼飯を掻き込みながら、越中ふんどし一つで裏の川へ走る。夕飯が終わるとバタンキューで寝るという非常に健康的な夏休みだった。妹は小走りが出来るようになって、笑い顔が可愛い盛りだったが川遊びはまだ早く、何しろ自分が覚える事が一杯あって、余り遊んだ記憶がない。多分纏わり付かれていたのだろうが。九月からの新学期にあわせて富山へ帰った。
台風キャサリン
昭和22年9月、新学期が始まって2週間、突如台風がやってきた。と言っても、富山はまともに風が当たるということはない。東側に3000mの立山連峰が連なっているし、南側は岐阜県との県境が飛騨山地の北のはずれである。でも生まれて初めて経験した台風だった。実はそれ以前も台風は来たのだろうが、何しろもの心付いたときは戦争中で、特別な気象情報は軍極秘で、ラジオでも新聞でも報道されなかった。(酷い時代である)富山の家は、縁側に雨戸がない。農家はいざ知らず、市中の家は商家も住宅もいきなりガラス戸だった。多分明り取りなのだろう。そのガラス戸が風でガタガタうるさい事この上ない。この音の所為で台風とは凄いものだと思った。年表を見ると、9月14日キャスリーン台風関東、東北に大被害、死者2247人、とある。
台風が過ぎて翌翌日の夕方、鹿沼の父母の家に被害があったので、皆で(伯父、伯母、私)お見舞に行くと言うことになった。学校は行かなくていいのかと聞くと、届けておいたから大丈夫だと言う。つい先月、夏休みで行ってきたばかりだから、得意で、直江津で信越線に乗換えて、高崎で両毛線に乗って行けばいいなどと説明すると、長岡廻りの急行で行くのだと言う。急行は初めてだから、面白そうだなぁと楽しみだった。しかし、何故三人みんなで行くのか、何故急いで行くのか、などという疑問は、その時全然頭に浮かばなかったのだから、如何にぼんやりしていたか知れるだろう。
山本由宇呆氏は現在87歳(昭和13年生まれ)、「我々より年長である方々にとっては、同様な体験があるはずで、決して特別な体験とは思っていない。ただ思い出して頂くもよし、それ以下の年代の方々には、そんなこともあったんだと、認識を新たにして頂ければ嬉しい。」とコメントされています。
