ぬかる道巻頭言コラム

【『ぬかる道』第444号 巻頭言】
『キャッチコピー効果』

ぬかる道巻頭言

巻頭言『キャッチコピー効果』

江畑哲男

アメリカ大統領選が始まった。いよいよ、である。
アメリカの大統領というのは、単なる一国の指導者ではもちろんない。良い意味でも悪い意味でも、世界のリーダーなのだ。ゆえに大統領選挙は全世界が注目するところであり、特別の意味と意義を有している。
自身の勉強と整理のため、以下箇条書きにしてみた。

早わかり「米大統領選挙」

(ア)米国の大統領選挙は4年ごとに実施される。
(イ)正副大統領候補は、米国生まれの市民で、35歳以上、14年以上米国に住んでいなければならない。
(ウ)選挙には、本選挙と予備選挙の二つが存在する。予備選挙は本選挙に先立って行われ、本選挙に出馬する各党候補者をここで決める(今回の民主党候補のカマラ・デヴィ・ハリスは数少ない例外になる)。
(エ)米国大統領は2回を超えて選ばれることはない(米国憲法修正第22条、1951年確定)。
(オ)投票率は1960年以降全般的に低下し続け、50%前後。前々回及び前回の選挙では60%強まで回復した。
(力)投票をするには自ら有権者登録をする必要がある。ココが日本の選挙制度と決定的に違うところ。
(参考:『USA Election in Brief』)

さて、話はこれからである。

そのアメリカ大統領選挙というのは、お祭りに近い要素がふんだんに盛り込まれている。民主・共和両党の全国大会は、イベントの意味合いを年々濃くしているという。TV放映を意識した政治的パフォーマンスに溢れ、アメリカ的明るさ(=軽薄さ!?)を前面に打ち出す。
好著『台湾のデモクラシー』(渡辺将人、中公新書)によれば、民主化を実現した台湾の総統選挙もどうやらアメリカを手本としたようだ。
そう言えば、台湾の選挙もやたら派手である。TVで見る限りだが、フェスティバルさながらの音楽が流され、まばゆくきらびやかで、大小さまざまな演出が多い。選挙前には選挙CM一色になって、政治演説のココというところでは「ジャーン」という効果音やBGMまで入るという。どうやら本家・アメリカをしのぐ賑やかさらしい。

言葉の大切さと危うさ

勉強ついでに、歴代米大統領選挙のキャッチコピーを拾ってみた。キャッチコピーというくらいだから、人心をキャッチ(掴む)ことに重点が置かれている。

①バラク・フセイン・オバマ(在位2009〜2017)

「Change」(変革)はあまりにも有名になった。さらには「Yes,we can.」(私たちはできる)も心に響いた。

②ドナルド・ジョン・トランプ(2017〜2021)

こちらもよく知られた「Make America Great Again」(アメリカ合衆国を再び偉大にしよう)。TVの映像などでは赤い帽子の支持者を見かける。「MAGA(マガ)」ハットである。右フレーズの頭文字から取った。

③ジョセフ・ロビネット・バイデン・ジュニア(2017〜)

こちらは残念ながら思い出せない。調べてもなかなか出てこない。あえて記すなら、「Unity」(結束)か?

総じて、キャッチコピーは短いこと・覚えやすいことが肝心。たとえ長〜い演説であっても、肝になる部分は端的で印象に残るものが多い。

1863年のエイブラハム・リンカーンの演説。小学生でも知っている。そう、南北戦争時の演説だ。
“that government of the people, by the people, for the people”(人民の人民による人民のための政治)。

この演説からちょうど100年後の1963年。キング牧師は「人種平等と差別の終焉」を呼びかけ、“I have a dream.”(私には夢がある)を繰り返した。これまた有名で、たしか英語の教科書で学んだ記憶がある。

話を大統領選に戻す。

④ジョン・F・ケネディ(1961〜1963)

“And so my fellow Americans:ask not what your country can do for you–ask what you can do for your country.”
「だから、国民諸君よ。国家が諸君のために何ができるかを問わないで欲しい。–諸君が国家のために何ができるのかを問うて欲しい。」

こうして時代を俯諏してみると、昔の決め台詞のほうが概して長かった。加えて、昔のほうが知的でもあった。

日本の場合

一方、日本の場合はどうだったか?

(a)まずは、小泉純一郎政権(2001〜2006)

言わずと知れた「郵政民営化」。前哨戦の総裁選では、「自民党をぶっ壊す」と絶叫。ワイドショーで盛んに取り上げられようになったのは、この政権あたりからだ。

(b)民主党政権(2009〜2012)

何と言っても、「マニフェスト」(政権公約)。このカタカナ語が一種の魔力を発揮して、「コンクリートから人へ」などのソフトイメージともからめて、「一度はやらせてみたい」の期待感のなかで政権交替を果たした。

(C)第二次安倍晋三政権(2012〜2020)

今度は逆に、「悪夢の民主党政権」と右マニフェストを批判。「日本を、取り戻す」と訴えて政権を奪還した。

……巻頭言を書くにあたって、かなりの下調べをしたが、面白いことに気がついた。「何か」が変わろうとする際には、与党であれ、野党であれ、魅力的でしかも一種攻撃的なスローガンが掲げられているのだ。時代が変わるというのは、おそらくそういうことなのであろう。

話題も変わる。

『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)をこの夏読み終えた。猛暑のなか、それよりも「熱〜い」時代の空気をまざまざと感じながら。多少の小説的誇張はあるにせよ、人は何かを成し遂げようとするとき、熱くもなってゆく。左記にて、筆者司馬遼太郎自身の興奮を借りよう。

筆者は思う。明治維新は、フランス革命にもイタリア革命にもロシア革命にも類似していない。きわだってちがうところは、徳川三百年の最大の文化財もいうべき「武士」というものが担当した革命だということである。(「惨風」より)
攘夷というのはもはや、初期の単なる外国人ぎらいから複雑化し、そのような幕府の貿易独占態度への反感、それに幕府いじめや討幕の単なる口実としての攘夷といったようないわば経済・政治的意味をもつまでになっている。(「薩摩行」)
「列侯会議」という構想ほど、幕末のこの時期、志士たちを昂奮せしめた救国策はない。
むろん、中岡の創案でもなければ、西郷や竜馬の考えついた案でもなかった。かれらはみなこれについて論じあったが、その案のもとだねは、英国の一青年の論文にある。
青年は、英国公使館の通訳官アーネスト・サトウであった。サトウは日本の文書まですらすらと読めるほどの語学力をもち、それになによりも情勢に対する警抜な分析力をもっていた。(「中岡慎太郎」)

挙げればきりがないが、ことほど左様に「志士」が現れ、「魅力的なフレーズ」が躍動する。時代の雲が動き、人が時代を動かそうとするときには、「言霊」が立ち現れる。

翻って、今日の総裁選や野党党首選にはロマンが感じられない。「魅力的なフレーズ」も出現していない(むろんフレーズの魅力だけで良否を判断出来ないのは百も承知だが、この項ではあえてフレーズをテーマにした)。
心が揺さぶられるような候補やフレーズが出現しないのは、平和呆けのせいか?はたまた、日本人自体が小さくなってしまったせいなのであろうか?

コロナ禍を超えて

前号巻頭言「大会花盛り」でも書いた。川柳仲間はコロナ禍にも耐え、みんな頑張ってきた。その我慢がいま実を結ぼうとしている。各地各吟社の大会の隆盛がそれだ。コロナ下で息を潜めていた人たちもここに来てようやく目覚めつつある。喜ばしい。もうひと踏ん張りである。
小生も可能な限り各地大会にお邪魔している。9月8日(日)松戸市、13日(金)福島県白河市、25日(水)石川県金沢市、29日(日)静岡県興津町。講演が多いが、講演をすると本人が一番勉強になる。「学びあえる」楽しさを分かち合えるのは幸せなことだ。10月は秋田県と地元の我孫子市(千葉県大会)11月は岐阜に加えて、新たに埼玉県宮代町が加わる。詳細はまた追ってお知らせしたい。

9月1日(日)、落語を半日楽しんだ。地元我孫子高校出身の「古今亭志ん橋真打昇進襲名披露興行」に出かけた。
芸術の秋だ。生涯学習の秋とも言い替えたい秋である。