中野彌生エッセイ

トリセツ

中野彌生エッセイ

トリセツと言う言葉を初めて見たのは、5~6 年くらい前のことでした。
本屋で新刊書を見ていた時、小冊子の表紙に「○○のトリセツ」とあったのですが、時流からは相当遅れている私には、トリセツの意味がさっぱり分かりませんでした。
今では、世間に相当浸透している言葉らしいのですが、調べて見るとトリセツとは、取扱説明書のことだと分かりました。
私がその言葉から連想するものは、まず電器製品などについて来る説明書なのですが。

私の想像に反して、今ではトリセツとは機器の説明だけでなく、人間に関しても使用されるらしく、それはちょっと意外なことでした。
もし誰かが紹介されるときに、「この人の取扱い方は」と言う風に説明されたならば、随分イヤな気分だろうと思います。

記憶によれば、夏目漱石は略語が嫌いだったようですが、私もどちらかと言えば、出来たての略語に拒否反応をするタイプなのです。
現在、頻繋に使われている言葉で、私が嫌いなものは「マイナ」とか「コスパ」などで、挙げればキリがないのですが、それらが気安く使われる場面では、何となく漱石的な気分になってしまうのです。
なぜ「私的番号」や「費用対効果」を使わないのかと、抵抗したくなるのです。

少し前の新聞記事に、トリセツについて私の目を惹いたものがありました。
その内容は、わが国の官庁には「大臣や国会議員のトリセツ」があり、官吏同士の引き継ぎ事項だと言うのです。つまり特定の人間の取扱説明書があるらしく、それを読んだ時には、本当に日本の官庁での話なのかと驚かされたのでした。

M大臣のトリセツでは、地方へ出掛けた時の滞在ホテルに関するもので、部屋に用意する果物や飲物などの好みが、事細かく引き継がれるのでした。その準備された部屋が気に食わないと、M大臣が不機嫌になることも引き継がれるのでした。
またN大臣のトリセツでは、地方へ出掛けた時の昼食に関する事で、用意するべきサラダや飲物などの好み、大臣が持って帰る土産物を買う担当者を用意するなど、抜かりなく準備することが、引き継がれるのでした。
私が驚いたのは、国家公務員の上級職試験に合格した官吏が、こんなトリセツに従って、右往左往していると言う実態でした。
その事実は、その記事が掲載された直後に、N大臣が土産物を買いに走らせたことに関して釈明をしていたので、やっぱり本当のことなのだと理解したのでした。
正確を期して申しますと、M氏もN氏も現職ではなく元大臣です。
私は国家公務員の上級職試験に挑戦したことがないので、その難しさを想像するだけなのですが、その難関を潜りぬけた官僚たちが、大臣のサラダや土産物を買いに走ることを想像すると、情けなくなるのでした。
こんなトリセツを、諸外国の官吏が知ったならば、何と思うでしょうか。
このトリセツを知った時、私は自分の息子が職場で不当に扱われ、業務外の雑用に追われている姿を想像していました。
会社員の息子が、社長の庭で草むしりをしたり、弁当を買いに走ったりして、こき使われている情景が浮かんだのでした。

最近では、兵庫県知事の言動が問題視されました。
報道によれば、知事のために車止めを撤去したり、エレベーターのボタンを遅怠なく推すことが、知事周辺の職員に対して、当然の仕事の様に要求されたらしいのですが。
もしも知事の出身官庁の実態が、職員に同様の事柄を課していたならば、知事は何ら躊躇することも問題意識を持つこともなく、その様に振舞ったとしても、あり得ることだと思われました。
知事には、前身の官吏時代のトリセツが、そのまま染み込んでいたのかも知れません。

私の川柳で最近作です。

心地よい声だけ聴ける知事の耳

米なくて待った新米最高値

中野彌生