中野彌生エッセイ

ナマの有名人

中野彌生エッセイ

テレビの画面で若者が、「あっ!ナマの○○だ! !」と有名人を観て発する場面を、幾度か目撃したことがありました。
どうやら有名人を真近かに観ると、ナマの○○と言うらしいのですが、ナマとは素のままでとか、電波を通さないで等の意味があるようで、面白い表現だと思いました。

私の人生を振り返えると、初めてナマの有名人を観たのは、1955年(昭和30年)秋のことでした。
田舎のことで、有名人など一度も観たことのない中学生だった私は、友人に誘われるままに、近くの高等学校の文化祭にウキウキとして出掛けたものでした。
文化祭に有名人を呼ぶなんて、高校生になったら、こんな凄いことが出来るのだと、主催した高校生たちが随分大人に見えたものでした。

その文化祭のステージに呼ばれたのは、歌手の藤山一郎と近藤圭子でした。
今では、この二人の名前を知る人は、多分私と同世代の高齢者に限られることでしょう。当時はラジオの時代で、藤山一郎はラジオで活躍していた有名な歌手でした。
その彼が文化祭で何を歌ったのか、全く覚えていないのですが、彼がステージに現れた時の最初のお喋りだけは、よく覚えているのです。

藤山一郎は開ロ一番に、「先ほど私に、サインをして下さいと言ってきた人がいましたが、人にサインを頼む時には、先ずサインをして頂けるでしょうか?と訊ねるべきです」とお説教をしたのでした。
文化祭の高校生たちを前に、最初からそんなお説教でスタートするなんてと、とても意外に感じたことを思い出します。
そんなお喋りで始まった公演は、余り良い雰囲気ではなく、ナマの藤山一郎は、このステージを楽しく盛り上げることなんか、考えていない様にも見えました。
ラジオでしか聴くことの出来ない彼の貴重なナマの歌声は、余り記憶に残らず、つまらない思い出になってしまいました。
私の藤山一郎評は、確かな技量と歌手生命の長さからも、実力派だと認めているのですが、地方公演での聴衆に対して、何かが不足していた様に感じられたのでした。

近藤圭子は、私たちの世代ではよく知られた童謡歌手でした。
舞台衣装の彼女は人形のように可愛らしく、初めて観るナマの童謡歌手は、別世界の人に見えました。高校生たちの「圭子ちゃーん!」と言う歓声に包まれて、彼女は西洋絵画の中のプリンセスの様でした。
彼女の「海ほおずきの歌」などを聴きながら、ステージ上に輝いている近藤圭子を、憧れの眼差しで見つめたのでした。傍に付き添った彼女のお母さんも和服姿の美しい人でした。

それから15年以上の歳月を経て、私も結婚して家庭を持った頃に、テレビドラマですっかり大人の女優に成長した近藤圭子を、観たことがありました。
そのドラマの共演者は有島一郎で、不徳の許されない恋愛を描いたもので、彼女は童謡歌手から脱皮して、美しい女優に変身していました。
彼女とは同世代の私は、少女時代からの活躍を知っていましたので、それとなく注目し、いつも応援している気持ちでした。そのドラマを観てから間もない頃に、彼女が軽井沢で妻帯者の男性と心中未遂事件を起こしたことがありました。その報道内容は、あのドラマを再現した様で、とても驚かされた事件でした。
あの可愛いらしかった近藤圭子が、そんな事件の当事者になるなんて!

私には直ぐに、彼女のお母さんの姿が思い出され、この事件をどう受け止めたのだろうかと痛ましく思いました。
当然のことながら歳月は、私が観たナマの近藤圭子を、その可愛らしいままには留めなかったようです。彼女は平坦とは言えない道を、彼女が選択したジグザグな人生を、歩んでいった様に思われました。

高校時代に聴いたヴァイオリニスト諏訪根自子を、今では知る人も少ないと思われます。

彼女のヴァイオリン・リサイタルを聴いたのは、1959年(昭和34年)のことでした。当時の地方では、プロの演奏家のリサイタルを聴くチャンスなど、滅多にない時代でした。
世間では平均的な給与生活者でも、リサイタルのチケットを購人する余裕はなく、誰もみな生活に追われて、音楽鑑賞にお金が使える時代ではありませんでした。
当時の私は高校生の身分で、とても手の届かない高価なチケットでしたが。
幸運なことに、私とは仲良しの同級生が主催者と縁故があって、当日は二人一緒に、会場のスタッフに成りすまして、入場させて貰えたのでした。

ステージに現れた諏訪根自子は、大きな歩幅でスイスイと歩き、その動作が非常に日本人離れしていると思われました。
当時、彼女は40歳くらいで、評判通りの美貌のヴァイオリニストでした。少しも衰えを感じさせることなく、その貫禄は一世を風靡した人らしく観えました。
演目はサラサーテのチゴイネルワイゼンやベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタなどで、私にとっては、ナマの諏訪根自子と初めてのナマのクラッシック音楽でしたが、今考えると、非常に貴重で得難い贅沢な体験だったように思います。

それから約20年も経た後のことでしたが、ノンフィクション作家角田房子が、ドイツ在住の声楽家田中路子との交流を書いたものを、読んだことがありました。
それによると、諏訪根自子がドイツ留学中に第2次世界大戦が始まり、ドイツ在住だった田中路子は、諏訪根自子が帰国もままならず困窮しているのを知り、彼女を自宅に引き取って、寄宿させたと述べています。

諏訪根自子を助けた自負のある田中路子は、彼女のヴァイオリンに関して苦言を呈していたのです。
田中路子いわく『諏訪根自子が使用しているヴァイオリンは、1943年にドイツのヨーゼフ・ゲッペルスから贈られたもので、ナチス政権がユダヤ人から取り上げたものだから、ユダヤ人に返してあげなさい』と諏訪根自子に手紙を書いたが、彼女からは何の音沙汰もないとのことでした。
戦後のリサイタルでは、ナチスがユダヤ人から略奪したヴァイオリンで演奏する諏訪根自子の伴奏は出来ないと、ピアニストから断られる場面もあったと伝えられています。
このヴァイオリンは、ストラディバリウスだとも言われましたが、諏訪根自子が鑑定も返却もしないままに時は過ぎ、彼女の遺族は、ストラディバリウスではなかったと否定しているそうです。
諏訪根自子にヴァイオリンを贈ったゲッペルスは、ナチス政権下で宣伝相をつとめ、敗戦時には、ヒトラーが山荘で自殺したのを知った後、妻子を道連れに毒をあおり、運命を共にしたと言われる人物です。
彼女のヴァイオリンの市場的価値は?とか、元の持ち主はどんな人だったのか?などは、非常に気になることですが、それは私のような俗人の関心事かも知れません。
諏訪根自子は、日本国内でもナチス政権からも絶賛されたヴァイオリニストで、あの暗い時代に輝いた人でしたが、もう今では、ナマの諏訪根自子の演奏を聴いた人も少なくなったことでしょう。

目撃したナマの有名人は、歴史上の人になってしまいました。

私の最近の川柳です。

追憶の景色カラーかモノクロか

誇りたくまた忘れたい日々もあり

中野彌生