中野彌生エッセイ

ツバメがいた風景

中野彌生エッセイ

もう随分長い間、ツバメを観ていません。ありふれた鳥なのに、ツバメは一体何処へ行ったのでしょう。この頃ツバメがいないと家族で話していたところ、

何年もツバメに会えぬ初夏淋し

朝日川柳(2024年5月25日付)で、大阪府の竹鼻雅子さんの句を見つけました。
やはりツバメがいないと感じる人が他にもいるのだと思いました。

子ども時代を振り返ると、私は虫や動物に近づけないタチで、犬や猫にも馴染めず、小動物を抱くことも出来ず、自然や動物には臆病な子どもでした。
敗戦後、私たち一家は外地から引き揚げて、縁故のあった田舎の農家に借家し、劣悪な住環境で暮らしていました。
そんな貧弱な借家の軒下でも、ツバメはお構いなく巣を造ってくれました。
当時、ツバメが巣を造る家は縁起が良いとか、きっと良いことがあると聞かされましたが、本当かなと私には疑問でした。
巣造りをするツバメの働き振りを見ていると、ツバメは幾度も繰り返し田圃から泥を運んで来て作業をするのですが、その仕上がりはどれも揃っていて見事なものでした。
周辺の自然には無関心な私でも、つい見入ってしまう程の技量でした。
ツバメは着工前に、既にその巣の全体像が描けているのか、キチンと歪みのない整った形の巣を造り、それは誕生してくる子ツバメたちの重量にも耐え得るものでした。
そんなツバメの巣を見ることは格別珍しくもなく、どこの家の軒下でも至る所で見かけることが出来ました。

母は、ツバメがせっかく卵を産んでも、この家の天井裏にいる青大将が、卵を盗んで食べてしまうのではないかと心配して、卵が無事かどうか頻繁に巣を覗いていました。
私には恐ろしくて、天井裏に青大将がいることを確かめることは出来ませんでしたが、夜寝ていると、頭上でバタンバタンと何か大きなモノが暴れる音がして、あれは何の音?と聞くと、母が『青大将がネズミを追っかけている音よ』と言いました。
私は恐ろしい家に住んでいると思いましたが、穀物を齧るネズミを捕獲する青大将と人間が共存していたのです。

ツバメのヒナが孵ると、ヒナたちは賑やかに大きな口を開けて、身を乗り出して母ツバメから餌をねだっている様子がみられました。
子どもの頃は、こんなツバメの営みを見ることは、ごく普通の日常だと思われました。

子ども時代から20数年を経た1970年頃のこと、私が住んでいた家の軒下にも、ツバメが巣を造ったことがありました。
私はツバメの子育てを観るのを楽しみにしていたのですが、ある日孵った子ツバメが一羽、巣から転落して死んでいるのを見つけました。
子どもの頃から多くのツバメの巣を見ていますが、これまでに一度も子ツバメが転落死したのを見たことはありませんでした。
猿だって理由がなければ木からは落ちない筈で、子ツバメにはきっと巣から落ちる理由があったのだろうと考えました。
子ツバメの死骸を見た時、私は直感的にきっと親ツバメが運んで来た餌が悪かったのではないか、その子ツバメが食べた餌が農薬に汚染されていて、その餌で神経をヤラレて転落したのではないかと想像していました。
私が最後にツバメを見たのは、その転落死した子ツバメでした。

私の子ども時代には、ツバメの巣の材料と食糧の供給源であった田圃には、大きなタニシが生息しており、当時はタニシも人間の食糧でした。今では田圃でタニシを見ることもなくなりました。
1950年代半ばの子ども時代の記憶では、夜になると田圃の所々に蛍光灯が灯っていました。その蛍光灯に向かって蛾など多くの虫たちが集まり、蛍光灯の下には大きな盥が虫たちを受けていました。
まだ農薬などを使わなかった時代のことで、あの蛍光灯のある田圃の光景が見られなくなったのは、いつ頃のことでしょう。
その後1962年に、レイチエル カーソンが「沈黙の春」を著して、農薬が惹起する環境問類に警鐘を鳴らしたのですが。
その当時は残念ながら、彼女の警鐘に注意を払う人は少なかったようです。

私は今でも、蛍光灯で害虫を集めていれば、農薬を使わなかったならば、あの子ツバメは転落死しなかっただろうと考えているのです。

中野彌生