中野彌生エッセイ

ある家族の戦後

中野彌生エッセイ

敗戦から79回目の8月15日が巡ってきました。

最近、姉からのメールに、
「黒柳徹子の『続 窓際のトットちゃん』を読みました。トットのママの疎開時の奮闘振りから、敗戦後の大連で、お母さんが物凄い頑張りで私たちを守り、ドサクサの混乱の中、引き揚げの荒波をくぐり抜けて来たことを思い出しました。」
とありました。
このメールを読んで、稀にしか思い出すことのなかった敗戦後の子ども時代を、すっかり遠い昔のことになった戦後の日々を回想したのでした。

敗戦後の大連で、満鉄社員だった父は海軍に応召して不在のまま、母と私たち4人姉妹は、頼れる人も無くとり残されたのでした。社内預金も郵便貯金も全ての蓄えが紙切れ同然と化して、母のオ覚だけで生き延びたのでした。
あらゆる物資・食料が不足した大連で、母は手持ちの着物などを中国人に売り、鰻頭やうどんを作って売り、日々を持ち堪えたのでした。
母の奮闘と頑張りのお陰で私たちは生き延び、やっと日本へ帰国を果たしたのは1947年(昭和22年)3月で、その時、私は4歳になったばかりでした。
我が家では、毎年3月21日は『引き揚げ記念日』と名付け、私たちの無事な帰国を記念して、母はお寿司や餃子などを作って祝いました。
その当時、餃子はまだ日本の一般家庭では馴染がなく、私たちの周辺では餃子を知る人はなかった時代です。
敗戦後、外地から引き揚げた人々は住宅に困窮しており、私たち一家は僅かな縁故を頼りに、地方の小さな田舎町に借家をしていました。
本当に小さな町・狭い地域社会でしたので、どんな出来事でも、どこかの夫婦喧嘩でも、直ぐに町中に知れ渡ってしまうような狭い世間でした。

私が小学5年生だった1953年(昭和28年)頃のことです。
私が通っていた小学校のそばに、古い侘しい家があり、お婆さんが一人で住んでいました。
偶にそのお婆さんを庭先で見かけましたが、彼女と話したことはありませんでした。
ある日、このお婆さんの息子一家が外地から帰って来て、そのニュースが町中に知れ渡りました。私たちの引き揚げよりも6年も遅い帰国でした。
敗戦から帰国が実現するまで、大変な混乱と困難な生活を体験した私たちには、更に長い歳月を大陸にとり残されたこの家族の暮らしは、さぞかし厳しい大変な生活だったろうことが想像できました。

お婆さんの息子は歯科医で、奥さんと二人の息子を連れていました。
お婆さんの孫たちは二人とも中学生でしたので、今思えばそのお婆さんは、現在の私よりもずっと若かったのだと思われます。
私には二人の中学生のことは、殆ど分かりませんでしたが、二人ともこれから始まる日本での生活に、張り切っている様子が伺えました。この二人が、英語や数学は頑張れば直ぐに内地の水準に追いつけると、利発そうに話しているのを目撃したことがありました。
二人の中学生は、地域や学校の催しでは、大陸から帰国したことを紹介され、その際二人は揃って大陸で習得したダンスを披露しました。
その踊りはコサック・ダンスによく似ており、腰を低くして一本足でクルクル回転したり、両脚を大きく拡げて宙にジャンプしたり、そのダンスから想像すると、彼らは中央アジア辺りからの帰国だったのかも知れません。
私は幾度か彼らのダンスを観る機会があったのですが、それは日本の盆踊りのように簡単なものではなく、身体機能を総動員したような鍛錬された難しいダンスでした。

彼らの帰国から間もなく、お婆さんの息子が、仕事を探すために知人を頼って上京したと聞きました。
このお父さんは、二人の息子たちともよく似ており、眼鼻だちの整った背の高い人で、俗に言う押し出しのいい人に見えました。その頃は誰でも、仕事を探すためならば、どんなことでも受忍する時代でした。
私は子どもながらも、歯科医ならば上京しなくても、近くで良い職場が見つかるのではないかと漠然とそう思ったものです。
それから間もなく、お婆さんの息子は東京で仕事を得たのですが、その地で巡り逢った女性と一緒になり、所帯を持って暮らしていると聞いたのでした。
小さな地域社会ですから、この話は直ぐに町内の人々の知るところとなりました。
その父親の家族への裏切りを知った時、大陸で苦労を共にした奥さんを捨てるなんてと、私は他人ごとながらも怒っていました。そしてこんな薄情なことを、男の人はそんなことが出来るのだと知らされたのでした。
けれども私は内心、その父親を非難しながら、反面この父親の気持ちを理解して、さもありなんと思ったのも事実でした。

その理由は、彼らが帰国してから間もない頃のことでしたが。
私は、なぜそれを観たのか思い出せないのですが、彼の奥さんが庭に面した縁側に、お盆にのせた湯呑み茶碗を出したところを目撃したことがありました。
その時の茶碗が、とても汚く不潔に見えたのでした。そればかりでなく奥さんの顔や頭髪・服装なども、とてもうす汚く見えたのでした。
この人があの歯科医の妻なのか、あの中学生たちの母親なのかと言う驚きがありました。
そんなことがあって私は、家族を捨てて去った男性に対して怒りながらも、反面理解を示すような子どもだったのです。
その後、父親の去った家族はどのように生きたのか、裏切った男性の母であるお婆さんと息子の妻は同居を続けたのだろうか、ダンスの得意な中学生はどのように成長したのだろうかと、分かる筈もないその後を想うのでした。

子どもだった私はその時、人は時間的にも距離的にも離れていると、こんなことが起きるのだと学習したのでした。
そして子どもであっても、世間の出来事を相当理解するものだと思ったのでした。これらの教訓は、その後の私に役立ったと思います。
私は、このお婆さんの息子一家のことを、誰にも話したことはありませんでした。

悪い奴だけど世間を頷かせ

私の実感句です。
敗戦後、その社会を映した家族のドラマが、数え切れない程あったことでしょう。

中野彌生