中野彌生エッセイ

K苑にて

中野彌生エッセイ

K苑は、我が家から車で20分ほどの静かな田園にある特別養護老人ホームです。

1994年頃で今から30年も前のこと、しばらくK苑に関わった日々を思い出します。

当時の私は、余り深く考えもせず、何ら積極的な意志もなく、K苑に出かけることになったのですが、そのキッカケとなったのは近所のH夫人のひと推しでした。
H夫人からは、
「今、ボランティアを探しているのよ。仕事の内容は、特別養護老人ホームで洗濯済みのオムツを畳んだり、入所しているお年寄りの話し相手をするの。経験がなくても簡単に出来るし、勉強にもなるわよ。お年寄りの相手をしていると、とっても優しい気持ちになれるのよ」
と誘われたのでした。

その頃の私は50代になったばかりで、正直なところ奉仕の精神とは無縁で、格別親切でもなく、優しくもないのに、なぜその話に乗ってしまったのか、自分でもよく解らないのです。
もしかしたらH夫人の『とっても優しい気持ちになれるのよ』の一言に、つい惹かれたのかも知れません。H夫人の勧誘に乗せられて、週に一度そのK苑に出かけて行くことになったのでした。

先ずK苑で、最初にしたことはオムツを畳むことで、これは誰にでも出来る簡単な仕事でした。あの頃、洗濯済みの布オムツを畳んだのは、使い捨ての紙オムツは単価が高くて、施設の経費の面からは、まだ布オムツの方が経済的だったからでしょう。
私にとってK苑での初日のことでしたが、オムツを畳んだ後に頼まれた仕事は、困ったことに、入所者であるお爺さんのお風呂の介助でした。
オムツを畳むことは承知していましたが、このお風呂の介助には相当面食らって、H夫人からは聞いていなかったのにと困惑するばかりでした。
私自身、裸を見たくらいで狼狽しなくても良い筈ですが、例え高齢のお爺さんであっても、他人の男性の服を脱がせたり着せたりするのには、ほとほと困って立ち往生しそうでした。
後で考えると、このお風呂の介助をハッキリと断わるべきだったと思うのですが、咄嵯のことで知恵が回らず、手際も悪くドギマギと介助したのでした。
私が服を脱がせたお爺さんは、私よりもずっと小柄で可愛い少年の様な人で、一見して認知症が相当進行していると思われる人でした。
その後、お風呂の介助はしませんでしたが、ここは高齢者施設ですから、認知症の人だけでなく、頭脳明晰の人も入所していたので、もし認知症ではないお爺さんの服の着脱を頼まれたならば、私はどうしただろうと思い返します。
介助をする人とされる人の双方で、相当な精神的負担だったろうと想像しました。
ボランティア仲間では、このお風呂の介助をどう受け留めたのか不審に思いましたが、私は新参者でしたので、ただ困惑して、こんなことは事前には聞いていなかったと、呆れて怒っていました。
あのK苑では、今でもボランティアの主婦に、お風呂の介助を頼んでいるのかと疑問に思うのですが、どうなっていることでしょう。

また別の日には、お婆さんのトイレの介助を頼まれたことがありました。
このトイレの介助も、ボランティアに参加する前には全く聞いていなかったので、私にとっては不意打ちでした。
私が介助したお婆さんは大きな人でしたから、ベッドから便座に座らせることは、大変な作業でした。仮に太っていない人であっても、体の不自由な人を便座に座らせることは、訓練を受けていない私には、とても難しい作業でした。そのコツを少しでも学んでいたならば、もう少し手際よく介助できたのにと思われました。
そのお婆さんは、小用を足すのに物凄く力んで、それでもなかなか難しく、とても時間が掛かりました。年を取ると言うことは、こんなにも排泄が困難になるものかと、思い知らされたことでした。
若い頃には全く意識しないことでしたが、確かに排泄が滞りもなく過ごせることは、快適に相違ないと分かる年齢になりました。
最近、テレビの広告業界では、排泄を助けるサプリメントの露出頻度がたかく、大きな市場なのだと思われます。

入居者のおやつの時間には、寝たきりの女性に付き添うことがありました。
私がおやつの介助をした女性は、当時の私よりも10歳くらい年長の60代で、頭脳明晰でハッキリと話しの出来る人でした。
この人は全身不随で、彼女におやつを食べさせてあげる時には、多くの時間を割いて、話し相手をするように努めましました。
私が彼女と世間話をしていると、施設の職員からも、
「話し相手になって頂くことが、とっても助かるのですよ」
と言われたことがありました。
実際、職員の働き振りを見ていると、入所者とゆっくり言葉を交わす暇など全くないほど、仕事に追われていることが分かりました。
この寝たきりの女性は、首から下がすっかり麻痺してしまった人でした。
体が不自由になる前の彼女は、華道や茶道の先生で、自宅を教室にして、近所のご婦人たちに教えていたと話してくれました。
回を重ねるうちに彼女が、私の訪問を楽しみに待っていてくれることが分かりました。
何回か話すうちに、彼女の全身が麻痺してしまった事故の状況を聞くことがありました。
その事故の詳細は、彼女が病院に行った時のこと、病院のトイレで服を着替えることになり、セーターをたくし上げて脱ごうとしたら、フラフラとバランスを失って後ろに倒れたのでしたが。
その時、彼女の頭がトイレの便器に当たって、頸椎を直撃して損傷し、その瞬間から全身が麻痺したのでした。その話には深く同情して、言葉もありませんでした。
その事故の後、『死なせて!殺して下さいって何回も頼んだけれど、自分ではどうすることも出来なかったのよ』と彼女は話しました。
事故の詳細を聞いた日は、彼女の無念さや絶望感を想い、私は夜もなかなか寝付けませんでした。
彼女のベッド脇で、何回おやつの介助をしたでしょうか。一緒に俳句を作って、時間を過ごしたこともありました。
ある年末、彼女の息子さんから彼女の訃報を受け取りました。「生前のご厚誼に感謝致します」とありました。どうして私の名前や住所が分かったのか?と思いましたが。
私はK苑に行けない時には、時々彼女に絵ハガキを送ることがありました。もしかしたら彼女の枕元に、私の絵ハガキが残っていたのかも知れません。

K苑のお年寄りとは数々の接触がありましたが、あるお爺さんとの会話を、再々思い出すことがあります。
このお爺さんは、寝たきりの不自由な体でしたが、とても社交的で、お喋りが大好きで、頭もハッキリと言語明瞭・記憶力も確かで、昔の事を良く覚えている人でした。
そのお爺さんが、現役でバリバリと仕事をしていた頃のこと、北海道へ行った時のことを話してくれました。
1971年7月30日、彼は北海道での仕事を終えて、全日空機で帰宅しようとしていた時のことでした。彼の飛行機は全席完売だったのですが、彼は運よく搭乗券を入手することが出来たのでした。
彼が空港の待合室にいると、一人の男性が近づいてきて、
『どうしても今日中に、東京に帰らなくてはならない事情があるので、搭乗券を譲って貰えないでしょうか』と話し掛けられたのでした。
彼は、その男性の事情を酌んで、自分の搭乗券をその人に譲ってあげたのでした。
ところがその飛行機は、岩手県雫石町の上空で、航空自衛隊の訓練機に衝突されて、乗客乗員162名全員が死亡した、全日空機雫石墜落事故の飛行機だったのです。
彼は、その航空機事故の犠牲者になったかも知れない運命を、偶然のことで困っていた人に搭乗券を譲ったために生き残ったのでした。
彼はこの話を、自分のベッドに来るK苑の職員やボランティアに、再々話している様子でした。自分はどんなに運が良かったかと話す時の彼は、とても明朗で幸せそうでした。
これまでの彼の人生で、どんなに不運で悔しかったことも、この一件が全てを相殺してくれたようでした。

不思議なことに、私がK苑に通うキッカケを作った、この奉仕活動に勧誘したH夫人を、K苑では一度も見かけることがありませんでした。
私を勧誘したのに、H夫人はどうしているのか、少々気掛かりでした。
H夫人を知る友人に、彼女の消息を訊ねたことがありました。
友人の話では、H夫人の夫の実家で父親が亡くなり、ひとり残されたお姑さんを自宅に引き取って、一緒に暮らすことになったとのことでした。
かつてのH夫人は『親の面倒をみないなんて、人の道に悖る!』と、ハッキリ公言していたのですが、最近では『もう年寄りの顔を見るのも嫌だ!』って言っているわよ!とのことでした。私には、H夫人のおかれた状況が、それとなく推察されたのでした。

念入りにドレスアップし食堂へ

ボケるが勝ちだけど誇りが邪魔をする

私の川柳で、お題は「高齢者施設」です。
歳を取ろうとも、オシャレは大切ですね!
夫婦の会話では、先にボケるから宜しくネ!と言ったりします

中野彌生