中野彌生エッセイ

勝ちゃんのこと

中野彌生エッセイ

今から72年も前の1952年(昭和27年)、敗戦から7年経った頃のことです。
当時の私は大連から引揚げて、縁故を頼りに辿り着いた片田舎で、小学4年生でした。

小学校の教室では、教壇に近い前の席に、勝ちゃんと言う男の子が座っていました。
勝ちゃんは背の低い、小さな丸い顔の男の子でした。
彼が少し笑みを浮かべて、はにかんだ顔が、私の記憶の画像に浮かんでくるのですが、彼が学級で何をしたか、どんな存在であったのか、殆ど覚えていないのです。勝ちゃんは授業中に大活躍をするような、目立つ子どもではありませんでした。

けれども勝ちゃんが具合が悪くなった日のことだけは、何故かよく覚えているのです。
勝ちゃんが、給食の時間に顎が動かないと言って、顎に手を添えて食べているのが、後ろの席にいた私にも分かりました。それから間もなく、勝ちゃんの容態が急変したようでした。
その日、帰宅してから母に勝ちゃんのことを話すと、母は「顎が動かないのは、破傷風の典型的な症状よ」と言いました。その時初めて、破傷風と言う恐ろしい感染症の存在を知ったのでした。

勝ちゃんの治療については、私たちの担任教師のお兄さんが製薬会社に勤めていたので、その特別の伝手で、抗毒素血清を入手する手配がなされたと聞きました。
あの敗戦後の貧しい時代に、何もかも不足していた時に、希少で高価な抗毒素血清を入手出来たことは、この担任教師とお兄さんのお陰で、全く奇跡に近いことだったようです。

勝ちゃんには、当時としては可能な限りの治療が施されたのでしたが、手遅れだった様で、治療の甲斐もなく亡くなってしまいました。
勝っちゃんが破傷風になったのは、彼が遊んでいた時に擦りむいた傷に、彼のお姉ちゃんが、道端のヨモギを摘んで揉み、傷に張り付けたのが原因だったと聞きました。
多分お姉ちゃんは、日頃から馴染んだ民間療法を、勝っちゃんにも施したのだと思われます。当時、傷にはヨモギが良いと言われており、私もその療法を聞いたことがありました。

薄情なようですが、小学4年生だった私にとっては、勝ちゃんが死んでしまっても、物凄く悲しいとか、寂しいと言う感情は、湧かなかった様に思います。私自身、勝ちゃんとは話したこともなく、一緒に遊んだ記憶もなく、何の繋がりもない希薄な関係でしたから。

勝ちゃんが亡くなってから、まだ何日も経過していなかった頃のこと、放課後の教室に、同級生の女の子たちが数人、残っていた時のことでした。
その女の子たちも、勝ちゃんとは同じ学級だったと言うだけで、彼と一緒に遊んだような仲ではありませんでした。
その中の一人が、一体どこから聞いたのか、勝ちゃんのお祖母ちゃんは、「あの子は死んで良かったのだ」と言っているらしいと話したのでした。
その時、その場に居た女の子たちは一斉に、「お祖母ちゃんが、そんなことを言う筈がない!」と強く否定したのでした。
その時の私は、黙ってそれを聞いていました。そして「お祖母ちゃんが、そんなことを言う筈がない」と思うのが普通であり、通常は誰でもそう思うに違いないと思いながらも、私は別のことを考えていました。

以前私は何かの折に、勝ちゃんの家の傍を通ったことがありました。
彼の家は、古い崩れ落ちそうな土蔵で、人が住める状態とも思えず、その暮らし向きの厳しさを現わしていました。私は見てはいけないものを見てしまった様な気がして、急いで通り過ぎたのでした。
敗戦後、多くの人々が住宅難に苦しんでいた時代でしたが、勝ちゃんの家は、人間の住居とも思えない無惨な状態でした。
勝ちゃんのお祖母ちゃんは、彼にそっくりの小さな丸い顔で、狭い地域社会では、彼のお祖母ちゃんだとすぐに認識できました。
以前、そのお祖母ちゃんと道ですれ違った時に、彼女が涙を拭きながら、泣きながら歩いているのを目撃したことがありました。
私は、お婆ちゃんが泣きながら道を歩くなんてと、不審に思ったものです。何か耐え難いことがあった直後なのだと想像していました。
私は、お婆ちゃんが泣いていたのを見たことを、誰にも話しませんでした。
勝っちゃんのお父さんを見掛けたことがありました。彼はとても頑丈そうな体つきで、なぜか怖そうな人に見えました。
勝っちゃんのお姉ちゃんは、時々いなくなって、暫く見かけないことがありました。
近所の人の話では、「お姉ちゃんは、何か悪いことをして補導されたのだ」と聞かされたことがありました。
勝っちゃんの家族構成は分かりませんでしたが、私が垣間見た彼の家族からは、不幸せな家庭を推測させるものがありました。多分、家庭内に辛い問題があって、お祖母ちゃんは、「こんな家庭で生きるより、あの子は死んでしまって幸せなのだ」と言いたかったに違いないと、私は想像していました。

その時の私は、「お祖母ちゃんが、そんなことを言う筈がない!」と思えなかったことが、とても哀しかったことを思い出します。
今ここで、「そんなことを言う筈がない」と言った女の子たちは、極く普通の幸せな家庭に育ち、辛い問題を抱えた家庭のことなどは、想像出来ないのだろうと思いました。

その時の私は、自分だけがお祖母ちゃんの言葉を理解した様に思えて、とても哀しかったのです。
「死んだ方がマシだ」と思わせる家庭の存在を、全く疑わなかった自分が、とても哀しかったのです。
私は、勝っちゃんの家庭については、誰にも話しませんでした。

私の川柳です。

幸せは同じ形状似た香り

型破り色とりどりの不幸せ

中野彌生