ある大学の研究チームが、「犬と暮らす子どもは、幸福度が高い」と言う論文を発表したそうです。それは幾つかの科学的データを集約したもので、犬は人を幸せにするのに役立っているらしいのです。そんなことから、むかし私が飼った犬が甦ってきて、あの頃は幸せだったのかなと振り返ったのでした。
息子が小学生だった頃、犬を飼わせて欲しいと懇願したことがありました。
近所の家の床下に、野良犬が住み着いており、その家のおばちゃんが、明日は保健所に連絡して、犬を連れて行って貰うと言うので、可哀そうだから、その犬を飼わせて欲しい。
うちで飼ってやらなければ、保健所で殺されてしまうよと頼むのでした。
私は犬を飼うことについては、様々な思いがあって、全く気乗りしませんでした。
1951年(昭和26年)敗戦後の田舎で、私が小学3年生だった頃のことです。
その地に疎開していた東京の一家が、もうすぐ帰郷するにあたり、犬を連れては行けないので、飼って欲しいと頼まれて、私の母が事情を酌んで、その犬を引き受けたのでした。
犬の名は「ボク」で、幼かった私は、なぜ東京の人が、ボクなんて変な名を付けたのかなと思いました。近所の犬の名は「ジョン」とかで、恰好よく聞えたものです。ボクの容姿は、愛玩犬の類ではなく、茶色の地味な雑種でした。
そんな冴えない犬でも、飼っていた東京の娘さんは、ボクが可愛くて別れ難いようでした。
彼女はその土地を離れるまで、何度も我が家の前を通る度に、ボク!ボク!とそばに寄って、名残り惜しそうにしていました。
私は、そのボクがとても痩せていることが気掛かりでした。
日本中の誰もみな貧しくて、人間が飢えていた時代ですから、誰にとっても食べることが、大問題だった時勢ですから、犬が十分に食べられなくて、痩せていても当然だったのかも知れません。私たち家族はボクを可愛がりましたが、ボクが我が家に来てからも、肥えさせることは出来ませんでした。
私には、ボクが痩せているのは、飼い主の責任だと思えて、とても哀しかったことを思い出します。ボクは交通事故で死んでしまいましたが、周囲の配慮で、私は死んだボクを見ていません。そんなボクの記憶から、私にとって犬はボクだけでいいと、今後、犬は絶対に飼わないと決めていたのでした。
ですから息子が、野良犬を飼いたいと頼んだ時、ボクのことを思い出して、絶対に飼わないと言ったのですが。夫は「良い遊び相手になる筈だから、飼ってやったら?」と息子に加勢して、保健所行きを阻止するために、我が家で飼うことになったのでした。
床下の野良犬は一命をとりとめ、我が家の一員になり、ベッキーと名付けられました。
ベッキーの容姿はスピッツにそっくりで、とても可愛らしい顔つきで、毛並みはうす茶色の雑種でした。我が家に来た時には、すでに歯石がたまっており、散歩では道路わきのU字溝に、足を踏み外して落ちたりして、これは相当な老犬だと思いました。
息子は、ベッキーを飼うことをとても喜んで、散歩をさせたりもしたのですが、それも初めの数日だけでした。自分の遊びに忙しく、犬の散歩をサボるようになりました。「犬の世話をするって、あれだけ約束をしたのに!」と、私は息子を怒鳴っていました。
ベッキーが我が家に来てから間もなく、お腹が大きくなり、赤ちゃんが生れました。老犬だと思っていたのに、私たちの気付かぬ間に、騒ぎもせずに子を産んだのでした。
子犬たちの容姿は、ベッキーには全く似ない、白黒の縮れた長い毛並みでした。
我が家に夕刊配達に来るオバサンが、子犬たちを見て、「この子たちの毛並みは、あそこのMさん宅の犬とソックリよ!きっと父親はMさんとこの犬よ!」と教えてくれました。
私は、Mさん宅の犬を見たことがなく、そんな話は初耳でした。
その直後に、ばったりMさんの奥さんに出会ったので、「最近、うちの犬が子を産んだのよ。どうやらお宅の犬が父親らしいのよ。」と話したところ、M夫人は、血相を変えて「何の証拠があって、そんなことを言うんですか!そんなこと責任問題です!」と怒ったのでした。
私は「責任だなんて!そんな事を!うちの犬は野良犬だったので、責任問題だなんて、全然思っていませんので、気になさらないで下さい!他意はありませんので!」と言い訳けをしたのでした。
近所のM夫人を、怒らせたまま放置できませんので、幾重にも謝罪したのでした。
その夜、夫にM夫人の予期せぬ反応を話して、平に謝罪したことを報告したのでした。夫は「うちの生娘を傷ものにした!どうしてくれる!って、ねじ込んだ訳でもないのになあ!」と言って笑ったのでした。
犬と暮らす人々は、本当に幸福だったら良いのですが。
私の川柳です。
エサくれる人がボスだと心得る
老夫婦犬を味方に手なずける
