敗戦後の幼少期を、片田舎で暮らしたあの頃から、70年以上も経た今頃になって、これまでに一度も思い出すことのなかった人々が、ふと蘇えってきて不思議に思うのです。
1952年(昭和27年)私が小学4年生の頃のことでした。
我が家から少し離れた山裾に、庭にナツメの木の茂った家があり、その実がなるのを見て、とても羨ましかったことを思い出します。
その家と我が家とは、格別親しい交流はありませんでしたが、母の話では、すこし遡ると繋がりがあり、うちとは非常に遠い親戚関係だとのことでした。
その家は、トシちゃんと言う跡取り娘が婿養子を迎えて、小学生の女の子が二人いました。
トシちゃんには18歳くらいの妹がいて、5人で暮らしていました。
その家の主婦であるトシちゃんは、ずっと長患いをして寝込んでおり、私は元気なトシちゃんを見た記憶がありませんでした。
私の母は、『あの家は、一体どうなるのかしらねえ』と心配していました。
田舎の狭い世間で、トシちゃんは体調が悪く寝込んでいるのに、勤め人の婿養子は、仕事の帰りに遅くまで遊び、飲み歩いていると言われて、子どもだった私の耳にも入る程でした。噂では婿養子は、勝手に田畑を処分して、飲み歩く金を工面しているとも言われていました。そのうえ彼は、トシちゃんの妹とは折り合いが悪く、日々喧嘩が絶えない様でした。妹が素足で、家の外へ飛び出すような騒ぎを、近隣にも目撃されていました。
周辺では、病身でどうすることも出来ないトシちゃんの家のゴタゴタを、一体どうなることかと、親身に心配する人もありましたが。
また一方では、芝居見物でもするように、噂話に関心を示す人もあり、狭い世間を大いに賑わせたようでした。
そんな状況下で、二人の女の子を残して、トシちゃんは亡くなったのでした。
その後、一周忌の法要も待たずに、婿養子は馴染の女性を家に迎え入れたのでした。
周辺では、ことの成り行きを心配していた人々の受け止め方は、勝手な真似をする婿養子と、彼が連れ込んだ女性が結託して、ナツメの木のある家を乗っ取ったとの印象を与えたようでした。その頃、トシちゃんの妹はどうしていたのか、幼かった私には分かりませんでした。
婿養子が後妻を迎えてから、まだ日も浅いころ、小学校では遠足がありました。
遠足の目的地は、少し離れた町の動物園で、希望する親は任意で同伴できる企画でした。
その遠足に参加した後妻を、私は初めて至近距離から見たのです。その女性は背が高く、派手な雰囲気の人でした。
彼女は、白地に黒い絵柄の着物を、大きく襟を抜いて着ていました。遠足に付き添う母親の服装にしては、場違いな感じでした。私には、一見して飲み屋の接客婦のタイプに見えたのですが、その頃の私は、飲み屋も酌婦も見た経験はなく、何故そう思ったのか分かりません。
目的地の動物園で、各々が自由行動をしていた時、トシちゃんの小さい方の娘が偶然傍にいたので、私はそっと彼女に訊いたのです。
「お母さんは優しい?」と。
そんなことを訊くべきではないと十分に承知しながら、私はどうしても問うてみたくなり、誰にも知られない様に、用心して訊いたのでした。
小さな娘は「うん、優しい」と答えました。
私は悪いことをしたと思いながらも、小さな娘は、新しく来たお母さんに義理立てをして、ちゃんと「優しい」と言ったのだと感じたのでした。
私はこのことを誰にも話しませんでした。
あの田舎を離れて、70年以上の歳月を経て、突然あの遠足が甦ったのは、無意識の内にも、あのナツメの木の家の人々に、関心があったからでしょう。
その後、私が目撃した後妻は、長くは続かなかったようでした。
彼女が家を出た後、婿養子は何人もの女性を、次々と家に迎え入れたようでした。
周辺の人々は、彼が連れ込む女性たちの顔をいちいち覚えられない程で、トシちゃんの二人の娘たちは、父親の女出入りの多い生活に、随分と苦労したようでした。
事情を知る周辺の人々は、婿養子がやりたい放題で、あの家を喰い物にした悪い奴だと、厳しい眼で観察していたと思われました。
歳月を経て、私自身が年齢を重ねて顧みると、妻を亡くした婿養子にも、多少の言い分はあったかも知れないと思うのでした。
遠足で目撃したあの後妻についても、当時とは違う見方もあると思えるのでした。
あの時、彼女は生きるために、後妻としてあの家に入る以外には、方法がなかったのかも知れないと。困難を覚悟の上で、後妻に来たのだろうとも思えるのでした。
遠足に参加したことも、精一杯好い母親役を努める積りだったと。
彼女は、世間が自分を観察する厳しい眼を、意識していたことでしょう。
あの場違いな派手な着物も、あの着物しかなかったのかも知れないと。
私が目撃した最初の後妻は、あの家を出た後、どんな人生を歩んだのかと、関わりもない人を想うのでした。
私の川柳です。
すべて見た庭のナツメは語らない
歳月が人の一分悟らせる