最近の新聞に、昭和にはあったけれど、今では無くなった仕事の記事があり、それを読むと様々な思いが交錯しました。それらの仕事は、昭和の暮らし振りの貧しさを浮き彫りすると共に、物凄い速さで利便性を求めて、社会が変容したことが伺えます。令和の若い人達がその内容を知れば、驚くことでしょう。
敗戦直後の昭和20年代には、銭湯で入浴客の背中を流す「三助」がいたそうです。「三助」は銭湯へ来る客から、幾ばくかの賃料を貰えたのですが、果たして生活が出来たのかと疑われます。「三助」は消えた仕事になりました。
昭和20年代、私が子どもの頃に見た「消えた仕事」では、馬に大きな荷車を引かせて、運送業をしている人がいました。その主役の馬が、生活道路に排泄物をボタボタと落としながら通って行きました。その落し物を、馬の飼い主が清掃するのを見たことがありませんでしたので、そんなことも大目に見られた時代だったのでしょうか。私と同世代の人でも、馬車の運送業を見た人は少ないと思います。
その頃は、まだ車社会にはほど遠く、地方の小さな運送屋が、トラックを購入できる時代ではありませんでした。稀に見るトラックは、運転手がボンネットの前で、棒をどこかに差し込んで、グルグルと力いっぱいに棒を回転させ、エンジンをかけるのに苦労をしていました。
当然のことながら馬車の運送業は、「消えた仕事」になりました。
お座敷の宴席を盛り上げる「太鼓持ち」も「消えた仕事」でしょう。「太鼓持ち」については聞いたことはありましたが、それを見る機会はありませんでした。
太鼓持ちは、少々座敷芸も出来て、宴席で客の遊びを満足させるのが仕事でしたが、芸者よりも低く見られたそうです。
芸者や太鼓持ちを宴席に呼ぶことは大変な散財で、並みの生活者には縁のない話でした。
いつしかその仕事も、宴席が大好きな「5時から男」が成り代わり、「消えた仕事」になりました。「5時から男」とは、退社時間が近づくと、そわそわと元気になる男性のことです。
1950年代、私が小学校の低学年の頃、無声映画を観たことがありました。それは映像だけで音声はなく、「活動弁士」が場面にあわせて、声色を使い分け、何人分もの声を演じて、物語を進めるのでした。
私が観た頃は、既に無声映画は廃れたもので、演目は「瞼の母」でしたが、これがたった一度だけ観た、最初で最後の無声映画でした。
今では「活動弁士」の話芸を、伝統芸能として継承するために、保存活動をする人はいるようですが、活動弁士は「消えた仕事」になりました。
子ども時代には、近所の大人たちが、浄瑠璃を観て来たと話すのを聞くことがありました。
今では浄瑠璃は、伝統芸能に関心ある人の高尚な楽しみのようですが、当時は、庶民がちよっと映画館にでも行くように、日常的に浄瑠璃を観たようです。もう私たちの身辺には、浄瑠璃を語る人や人形を使う人は、いなくなってしまいました。
昭和の貧しかった時代、日々の生活に精一杯な二人が所帯を持つ時には、「世間並みの支度は出来ません」との意味を込めて、「鍋釜下げて」とか「柳行李ひとつで」一緒になったと表現し、所帯道具の代表として「鍋釜」や「柳行李」が挙げられたのでした。
私の子供時代には、壊れた鍋を修繕する鋳掛屋が訪ねてきて、家の戸口に腰を下ろし、鍋を修理したのを見たことがありました。
その頃は、鍋に穴が開いても捨てたりせずに修理をして、何年も使ったようでした。そんな鋳掛屋を見たのは一度だけで、その後は「消えた仕事」になりました。
今日では、柳行李を作る職人は現存するのか、多分探すことは困難なことでしょう。
子ども時代に見たブリキ屋は、屋根の樋やストーブなどを作っていました。物資の不足した時代で、屋根の樋は「流しそうめん」に使うような竹を半分に割った樋も、見かけた記憶があります。ブリキ製の樋は良質だった筈ですが、ブリキ屋も「消えた仕事」になりました。
1970年(昭和45年)大阪万博が開催された頃でも、富山の薬屋が訪ねて来たことがありました。特に地方では、各家庭に富山の薬袋が必ずあったものです。
富山の薬屋は、腹痛や頭痛などの常備薬を袋に入れて、お金は取らずに置いていきました。
次に薬屋が訪ねて来た時には、使用した薬の分だけのお金を払い、また袋に薬を足して置いて行くのでした。こんな商法は、多分富山の薬屋の発案で、伝統的な方法だったのでしょう。私と同世代の人ならば、誰でも富山の薬屋を知っていると思いますが、平成や令和の若い人達にとっては、もうこんな行商は「消えた仕事」になったと思われます。
駅弁売りがいたのは、客の気を引く美味い弁当のある駅でした。プラットフォームでは駅弁売りが、首から弁当を積んだ箱をつり下げて、停車中の列車の窓から窓へ、弁当を売りに走る風景が見られました。
昭和20年代の駅弁は、コメ不足で外米の御飯が主流で、とてもイヤな匂いがしてマズかったのですが、国内の食糧事情がよくなってからは、駅弁も大層おいしくなりました。
塩尻の釜めし、横川の釜めし、高崎のだるま弁当、富山のマス寿司などが記憶に残ったおいしい駅弁です。今では列車の窓も開かないので、ホームの駅弁売りもいなくなりました。
1960年(昭和35年)頃、のこぎりの目立て屋を見たことがありました。
私の通学路には目立て屋があって、そこの主人が床に座り込んで、大きなのこぎりの歯を研いでいる様子が見えました。
使用後に目詰まりをして、鋭利さを失ったのこぎりの歯を、一つひとつ丁寧に研ぐ様子は、単純ではあっても、とても忍耐の要る仕事に見えました。多分この作業は機械化が難しく、伝統的な方法が残っていたのでしょう。
のこぎりがチェンソーの出現によって廃り、目立て屋は「消えた仕事」になりました。
1960年代、朝の通勤ラッシュ時に、電車の扉内に人を押し込める仕事がありました。
この仕事の名は何と呼ばれていたのか、「押し屋」とでも呼んだのでしょうか。どのくらいの期間その仕事が存在したのか、当時の国鉄に訊かないと分かりません。
電車に溢れて乗れない人を、次の電車に乗るように説得するのではなく、駅員や学生アルバイトがホームに待機して、乗れない人を扉内に「押し込める仕事」があったのです。当時の通勤客たちは、それをどう受け止めたのか、とても興味のあるところです。
当時の学生アルバイトは、幾ばくかの賃金を得て、助かったのは間違いないでしょう。
今の感覚では、とても理解出来ない仕事ですが、その当時は、それが一番良い解決方法だと思われたのでしょう。
1960年代の英国で、『東京では満員電車に乗れない人を、無理に押し込めるんだって?』と可笑しそうに、一度ならず訊かれたことがありました。
私は、自分のぶざまな振る舞いを嘲笑された心地がしたのですが、それでも『朝の通勤時間帯の少しの時間だけよ!』と、国鉄に成り代わって抗弁したのでした。
この電車に押し込む光景は、海外ではとても滑稽に見えたらしく、面白いトピックスとしてテレビで報道されたようでした。日本が経済大国だと認められる少し前のことでした。
私の川柳です。
柳行李ひとつで来てと言った筈
消えた仕事昭和の暮らし共に往き