母、妹の死
清水トンネルを抜けて関東平野に近づくにつれて、列車が立ち往生が多くなった。前の晩八時発の急行上野行きに乗って、何もなければ朝5時ごろに高崎に着いている筈が、お昼頃ようやく高崎着。両毛線(高崎―小山)はずたずたに分断され、殆ど不通。大宮まで南下して、東北線で北上しようとしたが、これもところどころ不通で、東武線と国鉄を乗り継いでその日の夜8時ごろ、鹿沼の家に着いた。ただ今と敷居を跨いだら、狭い家の真正面に目に入ったのが白い布で包んだ四角い箱が三つ。線香の香。「かあちゃんは?昌子(妹)はどこ?」と聞いてから、思い当たった。荼毘も葬式も終って既にお骨になっていたのだ。父の話。その日(9月14日)、夜になって、夏休みに私が遊んだ黒川の堤防が切れそうになったので、父は会社へ様子を見に行き、母は妹を連れて高台へ逃げることにして、別行動をとった。その途中、暗闇の中で、増水した巾3mぐらいの用水に落ち込んで、遥か川下に流されたらしい。私は、あの母が溺れたとは信じられなかった。横泳ぎと抜き手が得意な母であったから。きっと、水だけではなくて、土砂もゴミも一緒くたに流れている、真っ暗闇の中で、身重の体で、1歳数ヶ月の妹をかばって、頑張りきれなかったのであろう。「ここへ来い」と父に言われて、私は、しばらく父のふところに座って、黙って涙を流し続けた。大声で泣き叫んでも、何も還らないことが解った。父も、血を分けた肉親が、私一人になったことを実感したかったのだろう。
鹿沼北小学校
昭和23年4月、伯父の富山での仕事も一段落したのを機に、鹿沼町(現鹿沼市)に家を建てて伯父、伯母と一緒に住むことになった。もともとそういう計画だったらしくて、私の新学期に合わせての引っ越しだった。新しい家に着いて驚いた。屋根が杉の皮で葺いてある。杉の木の皮を40~50cmの長さで切りそろえたのを並べたものだ。当然、雨漏りがする。これを洗面器や鍋で受けるのだ。関東平野は夕立が多い。夏は毎日のようにこれをやる。二つ目の驚きは、板張りの雨戸がある。締めると当然真っ暗。富山の家には雨戸がなかった。積雪対策と明り取りであろうが、シッカリしたガラス戸の家が殆ど。三つ目は、手押しの井戸ポンプを始めて見た。粟野の母の実家も、粕尾の父の実家も、滑車つきのつるべ井戸だった。富山の井戸は自噴である。鉄管を2~3m土に打ち込むと水脈に達して自噴する。どこの家でも60㎝角ぐらいの水槽に溜めて、そこから柄杓で汲むのである。溢れたらそのまま流す。関東地方へ出て来て、毎日の風呂の水汲みが私の日課になった。
私の家から田んぼの向こうへ100mぐらいに、3年間お世話になる鹿沼北小学校があった。やっと、落ちついて勉強が出来る時代になりつつあったし、4年生という年齢的にも自意識が出てきたこともあり、また田舎ということもあって、自分の活動範囲(縄張り)が決まりつつあったころである。母が亡くなっても、伯母が台所をしていたし、惣領の甚六は自分の生活に没頭していたらしい。
山本由宇呆氏は現在87歳(昭和13年生まれ)、「我々より年長である方々にとっては、同様な体験があるはずで、決して特別な体験とは思っていない。ただ思い出して頂くもよし、それ以下の年代の方々には、そんなこともあったんだと、認識を新たにして頂ければ嬉しい。」とコメントされています。
