中野彌生エッセイ

雑巾の味

中野彌生エッセイ

また暑い夏と共に、 81回目の終戦記念日がやって来ました。
敗戦時に幼児だった私が、もう八十路を越えたのですから、生身で戦争を体験した人々や、当時を語れる人は、本当に少なくなってしまいました。
敗戦後の混乱した社会で、人々は貧しく、食べることに精一杯だった時代でも、戦争に駆り立てられた生々しい体験は、小説や映画などに残されたのでした。
直ぐに浮かぶのは、野間宏の「真空地帯」、大岡昇平の「野火」、五味川純平の「人間の条件」などです。日々の生活に追われながらも、あの体験を活字や映像に残した人々がいたのでした。
私たちは、戦地や軍隊での出来事を、小説や映画で追体験したのでした。

私が小学生だった頃、同級生の中には、父親が未だ戦地から帰らず、行方知れずだと言う人がいました。
その同級生から、「お父さんはシベリアに抑留されて」と聞いた時、私は初めて「抑留」と言う言葉とその意味を知ったのでした。

その頃、やっと故郷に帰還した近所のおじさんたちが、我が家に来ては賑やかに、軍隊生活を語るのを聞くことがありました。
おじさん達にとっては、思い出すのも苦々しい軍隊生活ではあっても、誰彼となくその体験を話して、聞いて欲しかったのかも知れません。
その頃は、物資が不足した貧しい時代でしたが、どこからか安い酒を調達して来て飲みながら、平時の人間社会では絶対に有り得ない、信じ難い軍隊生活を話すのでした。
軍隊では、少しでも階級が上であったり、少しでも先輩ならば、上の者は威張り散らして、下の者は全く人間扱いをされなかった体験を、アレコレと話すのでした。
小学生だった私は、その傍らで、じっと聞き入っていました。

近所のおじさんの体験談で、私に強烈な衝撃を与えて、忘れられない話がありました。
おじさんが軍隊の兵舎で掃除中に、パケツから水がこぼれたことを、上官に見咎められて、罰を受けた時のことです。
そのおじさんは上官の命令で、雑巾を口にくわえさせられて、犬のように四つん這いで歩かされ、そのバケツの水が垂れたと思われる階下に、謝りに行かされたと話したのでした。
そんな話をした時のおじさんは、そのイジメに対してどう考えたのか、どのくらい腹を立てていたのか、私には、伺い知ることは出来ませんでした。
おじさんは、珍しい話でも聞かせる様に、抵抗するすべもなく、命令されるがままに、上官の言いなりに罰を受けた体験を話したのでした。

小学生だった私は、「そんな罰は許せない!」「雑巾はどんな味がしただろう」と、私の憤りは例えようもなく、歳月を経過した今でも、思い出せば新たな怒りが湧いてくるのでした。

また他のおじさんの体験談は、何かで失敗をした時、罰として、蝉の真似をさせられたことを話しました。
兵舎の柱によじ登ってしがみ付き、「ミーン!ミーン!」と、長い時間、蝉の嗚き声をさせられたのでした。柱からずり落ちたら、またよじ登って、「ミーン!ミーン」と、それを命じた上官が「よし」と言うまで、いつまでも柱にしがみついて、蝉の真似をしたのでした。
それを聞いた私は、ただもう憤慨して、怒っていました。

三人目のおじさんは、女性など一人もいない兵舎で、若い少年兵が女役を命じられ、それが兵舎内での、遊びになっていた様子を話したのでした。
少年兵は、「ねえ!お兄さん!ちょっと寄っていらっしゃいよ!遊んでいかない?」と女らしい声色と仕草で、立ちんぼうの売春婦の役をさせられたのでした。
少年兵は、女役をどこまでリアルにやり通したか、おじさんは真に迫った演技で、面白そうに話すのでした。子どもだった私には、何のことか分からないながらも、卑猥で普通ではないらしいことを察っしたのでした。

私の学生時代の指導教官は、開戦当時、在籍していた大学病院の医局から、軍隊に召集された医官でした。
教授は、若くして将校だったのですが、戦時中の体験については、殆ど話されることはありませんでした。
たった1度だけ講義中に、戦時中の兵士たちの食事に言及されたことありました。
「兵隊さんたちの食事は、本当に貧しくて酷いものでしたよ。食事の質も量も、あれではとても体はもたないと思うほどで、貧弱なものでした。もう国内には、食べ物がなかったのですから。日本中で物資が不足し、国民は困窮し切っていたのですが。そんな時でも、将校専用の食堂では、平時と変わらず、肉・たまご・砂糖・バターなども十分にありましたから。その実態は、本当に酷いものでしたよ。」と話されたことがありました。

私は、「やっばり、そうだったのか!」と思い、小学生時代に聞いた兵舎での話が甦ったのでした。こんなことを書き残すことも、少しは意義があることかも知れないと思うのでした。

私の川柳です。

元兵士受勲を辞退したそうな

中野彌生