愛と死をみつめて

「愛と死をみつめて」のないしょ話
その一 

愛と死をみつめて
連載コラム
『愛と死をみつめて』は、19060年代前半の日本で、小説・歌・映画・テレビドラマと連鎖的に大ヒットを記録し、凄まじい社会現象を巻き起こした純愛の実話です。東葛川柳会幹事秋元久雄さんが、その裏話を調べまとめられました。長文のため四回に分けて掲載いたします。お楽しみください。

私の頭に「愛と死をみつめて」が浮かんで離れないので書いてみます。誰かが「早く書け」と言っているみたいです。それでは「愛と死をみつめて」のまことみこが出逢うところから簡単に書いてみます。

河野實(まこと=まこ)は1941年に大阪市に生まれ、長野県伊那市に移住した。高校卒業後浪人中に大阪の病院に入院する。その病院で明るく元気な女性に出逢った。大島みち子(みこ)1942年兵庫県西脇市生まれである。河野實から声をかけた「ご家族の介護に来ているのですか?」大島みち子は「いいえ私が病人なんです」と答え、二人とも阪神タイガースのファンなので意気投合し、河野實が退院した後は文通をしていた。

河野實は1961年に中央大学に入学し、大島みち子は1962年に京都の同志社大学に入学した。大島みち子はその夏に病気が再発し入院するが、その後一度も退院することはなかった。

大島みち子の病名は軟骨肉腫で治りにくい病気と言われていた。河野實はその病院に寝泊まりして、昼は大阪駅の近くでアルバイトをし、夜は大島みち子の介護をした。そして次の1963年8月7日に大島みち子は亡くなった。

私は過去に「愛と死をみつめて」と大島みち子の日記を本にした「若きいのちの日記」を読んだが、「愛と死をみつめて」の方にはウソが書かれていると、思えるところがいくつかあると感じていた。しかしそれは余命宣言された自分を、愛し続ける河野實の悲しみを少なくするための、親切な女心だと気づくのに長い時間がかかりました。

河野實は大島みち子のお葬式の後、みち子のご両親にこう言った。「私はみち子さんが生きている時に、私たちの手紙を本にしてもらおうよと言いましたが、みち子さんは『やだやだ、私たちの手紙は二人だけのものでしょ、もし私が亡くなったら捨てて下さい』と言われましたが、私はみち子さんの素敵な文章を多くの人に見てもらいたいし、みち子さんの手紙を本にして私のそばに置いておきたいのです」と言い、ご両親にわかっていただきました。

その年の9月、河野實は東京都中野区の西武新宿線の新井薬師駅に降りた。手に持つボストンバックには河野實と大島みち子が出しあった400通の手紙が入っていた。駅を出ると大和書房へ向かった。大和書房がかって出版したある若い女性の闘病日記の本を、河野實が買い大島みち子に差し上げ、二人とも感動したことがあった。この本を出版したのが大和書房なのである。
大和書房は周りが畑のアパートの一室だった。河野實は大和書房の社長に事情を説明して、手紙を本にすることをお願いし社長は引き受けてくれた。

社長は昼間の仕事が終わると事務机を部屋の隅に片づけた。その部屋は夜に一家五人の寝室になるのだった。夕食がすみ一家団欒が終わると、社長は手紙を居間に持ってきて読み始めた。そして「自分が何も手を加えずに本にしよう」と決めたが、校正がなかなか進まなかった。手紙を読むと涙が止まらなかったからだ。

秋元 久雄