遊人のユーモア・エッセイ

かんちがい

遊人のユーモア・エッセイ

古今東西、人の世にかんちがいはつきものである。結婚なんかは最大のかんちがいかもしれない。生まれ育ちも違う、見も知らなかった男女が、一つの家で何十年も一緒に暮らすのであるから、かんちがいでもしていなければ、怖くてできないだろう。でも、多くの場合、このかんちがいに気づかずに過ごしていけるのが救いである。

これが言葉のかんちがいとなると、そこからユーモアがうまれる。ある時、大きな居酒屋に行った。チェーン店の一つで、どこにでもある安い居酒屋である。まだ、時間が少し早いせいか、客はまばらだった。通されたところは、大き目の座敷で、隣の席は若者グループで、もうかなり盛り上がっている。その向こうにはおばさんのグループで、これも酒を飲むピッチが早い。突然、若者グループの一人が大きな声をあげて店の人を呼んでいる。注文したものがまだ出ていないらしい。しびれを切らした若者は、声を張り上げて叫んでいる。「ねえ、僕の注文した『うなぎのひまつぶし』まだあー」最後には、「うなぎのひまつぶし、うなぎのひまつぶし」を連呼した。これを聞いていたおばさんグループの一人が怪訝そうな顔をしてメニューをのぞき込む。どうも、この「うなぎのひまつぶし」なる料理をさがしているようだ。メニューより顔をあげるなり、このおばさん、ギャハハと笑い、大声で叫んだ。「やーだ、あんた、『うなぎのひまつぶし(暇つぶし)』じゃないよ。これ、『うなぎの櫃まぶし』だよ」全員大笑い。「ひまつぶし」を叫んでいた若者は酒で赤くなった顔をさらに赤くした。「櫃」が死語になりかけている今、「櫃まぶし」が「暇つぶし」になってもしょうがないなと思わず納得。

私自身も、この若者と同じような恥をかいたことがある。女房と一緒に洒落たイタリアレストランに行ったときのことである。前菜にサラダが欲しいと、メニューをのぞき込んだ。ちょっと変わったサラダがある。キノコのサラダのようだ。まだ食べたことがない。(よし、これにしよう)「それでは、まず、この『エンギリサラダ』を一つと...えーと、それから...」注文を取っていたウエイトレスが首をかしげて、メニューをのぞき込む。「お客様、『エリンギサラダ』をお一つですね」(え...え、え...)思わずメニューの文字を確認した。確かに、確かにエンギリ(縁切り)じゃなくて、エリンギだ。女房と一緒の食事に、エンギリ(縁切り)はまずい。

こんな話をしていたら、私の友人は何十年にもわたるかんちがいをしていたことを告白してくれた。小学校の卒業の時に歌った歌である。この歌、我々世代であれば誰でも知っているあの「仰げば尊しわが師の恩...」である。これをこともあろうに、「仰げば尊し和菓子の恩...」と思っていたとのこと。これには大笑いである。しばし笑った後で、ふと考えた。待てよ、「和菓子の恩」て中々良いじゃない。あの時代、今ほど甘いものが氾濫していなかった。学校の何かの行事で手渡される紅白のお饅頭、確かに甘かった、美味かった。それで、卒業式には、心を込めて歌います、「和菓子の恩...」て。こっちの方が実感がありますね。食べものの恨みは忘れられない。食べものの恩はもっと忘れられない。

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