遊人のユーモア・エッセイ

二つの運

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高校時代は陸上競技に没頭した。勉強した記憶は全くない。お弁当箱だけ鞄に入れて学校に行くと真っ先に部室に向かい、ロッカーに置いてある教科書からその日に使うものだけ鞄に入れて、教室に向かう、授業が終わると教科書はロッカーに戻し空の弁当箱だけ鞄に入れて帰宅する。そんな高校生活であった。

この陸上部三年間の最後の年に二つの運を頂いた。当時、陸上競技の強豪校であった母校、春日部高校には全国的な名選手が集まっていた。そんな名選手たちを押しのけて400メートルリレーのスターターに選ばれた。これまで、インターハイのリレー種目はひとり200メートルを四人で走る800メートルだけだったが、この年から400メートルと1,600メートルの二種目になった。これが第一番目の運である。当時の私は百メートルを専門としていた。専門と言うより百しか走れない選手であった。スタートダッシュから50メーターはめっぽう自信があった。でも、これからがいけない。見る見る内にスピードは落ち、ゴールした時は、マラソン選手のようになっている。一人200メートルを走る800メートルリレーであったなら、とてもメンバーにはなれなかったと思う。

この当時、400メーターリレーは、あの有名な灘高校が全国記録を持っていた。確か43秒5、6だったと思う。我々は予選で43秒4を出した。その時、ラジオで、「春日部高校、日本高校新記録」と叫ばれたと、後で聞いた。この年は他の高校も強かった。決勝は残念ながら六位に終わった。それが最終的には五位に繰り上がった。二着でゴールした高校がバトンパスでオーバーランをして失格になったからである。これが二番目の運である。

第一走の私は決勝でフライングをした。当時は一回のフライングは許されていた。「春日部高校の松澤、フライングです。夕日にえんじのランニングが鮮やかです」と、放送されたようだ。これを聞いた両親は大喜びであったらしい。「よくぞフライングをしてくれた。よくぞ家名を全国的に知らしめてくれた」と言ったか言わぬか分からないが、多少の親孝行が出来たのかも知れない。

この事を、後のOB会でメンバーの一人であったK君が、皆に話をした。「あの時、松澤君がフライングをしていなければ、事によると優勝だったかも知れない」と言った。優勝は難しいにしても、二着か三着に入る実力は十分にあったと思う。フライングの後の二度目のスタートは、自分でも慎重に慎重を重ね、随分とゆっくりしたものだった。「顧問の先生、すみません。皆、ごめんね」と改めて言いたい。

でも、その後、よい事もしない代わり、悪い事もしなかったので、全国的に私の家名が放送される事は全く無かった。

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