鹿沼での学校生活
活字に飢えていた、というのは本当だったろう。戦争中は紙が無くて、新聞でさえ一枚こっきりの折りたたみだったし、教科書なんか兄弟などのお古があれば言うことなしだった。昭和二十三年から、薄い教科書が初めて全員に配布された。たしか無償だった気がする。特に理科の教科書がカラー版で、絵や図が多くて、気に入った。太陽系、銀河系、彗星、恐竜、特に興味を引いたのは、始祖鳥(恐竜から鳥に進化する過程の嘴に歯があり、羽毛の羽を持つ)。六年の時に、どういう訳か、数学の特別授業みたいなのがあった。校長が理系で、旧制中学の入試の基礎数学的な内容であった。分数計算、図形の面積、立体の容積の公式、平方根の数値の覚え方(一夜一夜に人見頃、人並みに奢れやな、富士山麓オウム啼く、などなど)鶴亀算、未知数をXと置いて式を立てる方法、など。この辺が面白くて、夢中になった。それにラジオ製作。といっても鉱石式受信機。初めて聞いた番組は、「ラジオ寄席」。笑い声だけがヤケに大きく聞こえた。
そのほかに特別に勉強をやった覚えはない。毎日、陽のあるうちは、校庭で、山で、川で、お互いの家に行って、友達と遊び呆けていた感じだった。興味のあるものは熱中するが、ほかは通り一辺しかやらない。実に一般的な子供であったろう。重要なことは食い物。麦飯に納豆、豆腐の味噌汁、たまにコロッケや天麩羅が出ると大ご馳走。一日置きの給食は脱脂粉乳とパン、または持ち寄りの野菜の具のごった煮味噌汁。これが意外に美味い。野菜スープだから。
石島朝治先生と俳句(川柳への呼び水)
受け持ちは、石島朝治先生という男の先生で、4年~6年まで3年間お世話になった。30歳代の学年主任で、体当たり的な熱血先生だった。昨年(2004)、卒業55周年のクラス会をやったが、92歳の先生はお元気で参加された。相変わらず大きな声で、15名の出席者一人ひとりに相槌を打たれた。我々の受け持ちだった頃から俳句をたしなまれ、今でも月一回の句会を楽しみにされているという。今思えば、国語の時間に、盛んに俳句を作らされたのを思い出した。下手な句でも、兎に角褒めて、続けさせようとされたものだったが、誰もご期待に応えられなかったようだ。しかし、定年後私は、川柳を始めて、多分、下手なりに死ぬまで続けようと思うようになったのは、このときの俳句を褒められた事が、潜在意識にあってのことだろうか。先生には、卒業後も、なにかとお心を寄せていただいて、折に触れての喝を、今に至るまで戴き続けている。
1年間に亘って、第二次世界大戦の終戦をはさんでその変化を、私の小学校時代を書いてきたが、振り返ってみると、幼いなりに生死の境目を三度に亘って(機銃掃射、空襲、父母との別居で水害を免れた事)潜り抜け、生きる方へ運命付けられていると思わざるを得ない。母は若くして亡くなったが、父は現在九十九歳で元気だし、私は折角母の分も生きなければすまないと思うのは、思い上がりであろうか。(父は本稿の翌年2008年5月に100歳にて没) この連載を始める時、第二次大戦の終戦直前からのいろいろな変化を、子供の目から見た感じで書きたいと思ったが、一応成功したかなと思われる。
山本由宇呆氏は現在87歳(昭和13年生まれ)、「我々より年長である方々にとっては、同様な体験があるはずで、決して特別な体験とは思っていない。ただ思い出して頂くもよし、それ以下の年代の方々には、そんなこともあったんだと、認識を新たにして頂ければ嬉しい。」とコメントされています。
