遊人のユーモア・エッセイ

千住のお化け煙突

遊人のユーモア・エッセイ

バスが橋を渡る。「ここから東京だよ」と隣に座った母が教えてくれる。しばらくすると、目の前に見えてくるのが、細長い数本の煙突だ。バスはこの煙突を遠巻きにしながら進む。進むにつれて、この煙突が二本になったり、又三本になったりする。見る角度によって、二本が完全に重なってしまうからだ。母はこれをお化け煙突と呼んでいた。本当にこう呼ばれていたのかどうかは分からない。事によると、母だけのネーミングだったのかもしれない。このお化け煙突が、子供の頃、出会う最初の東京だった。田舎の町から、東京駅八重洲口まで直行のバスが出ていた。バスは舗装も疎らな、凸凹道を、黒い煙を吐きながら進む。バスの揺れや排煙の臭いに多少なれてきた頃に現れてくるのが、二本、三本と姿を変える細長い煙突である。

その当時の東京は、田舎に住む者にとって驚きの連続であった。人の多さや、車の多さ、瀟洒な建物、道行く人の服装、どれもこれも子供の心を有頂天にさせ無い物は無かった。でも、圧巻は食べ物。田舎ではお目にかかれぬ食べ物が溢れていた。東京に行くと、必ずデパートに行く。デパートに行くと、食堂に行く。そして、必ず食べるのが、フルーツ・ポンチになる。甘ったるい蜜に浸された酸っぱさの残る果物は、その数片で、体のすべての感覚に、「東京」を叩き込んでしまうほど強力だった。

その後、「東京」は驚きを与え続けてくれる。大学受験のため、田舎の高校の友人と東京の予備校に通った事がある。昼は必ず予備校の近くの食堂でランチ定食を食べた。お目当ては、ランチ定食に必ず付いてくる挽肉を固めて焼き、その上にどろっとした茶色いソースがかけてある惣菜である。二人ともハンバーグなるものにはお目にかかった事がなかった。それで、我々はこれを単純に「肉の塊」と呼んでいた。昼食はいつも、この「肉の塊」の付いた定食にしていた。ある時、友人に出された皿に、この「肉の塊」がのっていない。忘れられている。友人は店の人を呼ぶなり、「僕の皿に肉の塊がのっていないよ」と文句を言った。店の人がどんな顔をしたかは忘れたが、恐らく、我々二人をとんだ田舎者と思ったに違いない。

育った田舎の家では、日曜日の朝、すき焼きを良くしていた。土曜日に父が会社の近くの肉屋から牛肉を買ってくる。祖母は朝からやっている近くの八百屋に、長ねぎと糸こんにゃくを買いに行く。八百屋の主人は、「朝からすき焼き。豪勢だね」と世辞を言う。祖母は、家に帰るなり、世辞を言われた事を、ちょっと自慢げに話す。こんな事がいつも繰り返されていたような気がする。肉は固い細切れ肉だった。噛んでも噛んでも噛み切れないものもある。こんな時、祖母は昔小樽で一緒に暮らしていた叔父さんの話をする。叔父さんは、まだ幼い祖母が噛み切れずに出した肉を、鍋に漬け直し、自分で食べてくれるのだそうだ。こんな事を実に懐かしそうに話す。ボーナスでも出たのであろう。父がすき焼き用の少し高級な肉を買ってきた時がある。祖母と母はこれを食べにくいと言って、細切れにしてしまった。だから、家で食べていたすき焼きは、細切れ肉を鍋で煮込んだものだった。かなりの年になるまで、これをすき焼きと信じていた。社会人になり、接待の席ですき焼きを食べた。東京の有名な専門店で出されたすき焼きを見て、食べて、本当に驚いた。家で食べていたすき焼きなるものが、本当のすき焼きと似ても似つかぬものであった事が初めて分かった。久しぶりに「東京」が教えてくれた新鮮な驚きだった。

今は、わざわざ東京に出て行かなくても何でも見られるし、何でも食べられる時代になった。良い時代になったと思う。「東京」に驚かされる人も、もういない。そして、お化け煙突は、とうの昔に姿を消してしまったし、東京にはもっと、もっと近代的なビルが立ち並んでいる。

でも、驚かされる事がないって、本当に幸せなのかなと思ってしまう。

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