中野彌生エッセイ

鶏たちに寄せて

中野彌生エッセイ

2008年頃のこと、秋田県の比内地鶏が俄かに脚光を浴びる事件がありました。
そのことが起きるまで、私は比内地鶏が非常に高価な鶏肉だとは知りませんでした。

当時、秋田県大館市の鶏肉加工業者が、卵を産まない不要になった「廃鶏」を、高値の比内地鶏だと偽り、消費者を騙して不当な利益を上げた事件がありました。
私自身は食通でもなく、高級料亭に出入りする機会もないものですから、比内地鶏という世にも高価な鶏肉を食べたことがありませんでした。
その事件で直ぐに頭をよぎったことは、業者のインチキ商法に憤るよりも、もし私が比内地鶏を食べたならば果たして他のブロイラーなど安価な鶏肉と区別がつくのだろうかと言うことでした。また世間一般の消費者は、比内地鶏の真贋を自分の舌で判定出来るのだろうかと言う疑問でした。

真贋の分からぬ舌で地鶏買う

この川柳は事件直後に詠んだものです。
他にも名古屋コーチンなど高価な鶏肉があり、ブロイラーよりも上等らしいのですが、私の味覚ではコーチンの真価を実感したことはありませんでした。
世間では日常的に、銘柄品がその名ゆえに値が跳ね上がり、消費者はその高値に容易く応じて、業界に甘いと感じることは多々ありました。

銘柄を偽装する業者を儲けさせる責任の一端は、消費者の側にもあるように思えて、そんな心情を詠んだ句なのです。

最近テレビで、ニュージーランドに住む人が鶏を飼う場面を観たのですが、日本ではとてもあり得ない養鶏風景でした。

ニュージーランドで遵守すべき鶏の飼い方を説明していたのですがこの国の法律では、鶏をケージに入れたり柵で囲い込んで飼うことは、鶏への虐待に相当し法令違反になるというのです。
従って鶏は囲い込むことが出来ず、放し飼いにしているのでした。

数年前に、これと似た話を日本でも聞いたことがありました。
報道によれば日本の養鶏場は狭いケージの中で鶏を虐待しているので、放し飼いにするなど環境改善をするように、外国の動物愛護団体から抗議されていたのですが、日本の養鶏場が改善した様子はありません。

テレビでニュージーランドの養鶏現場を観て気掛かりだったことは、この国では自分の鶏を囲わずに、どんな方法で所有権を主張するのだろうか、他人の鶏とどう区別するのだろうかと言う問題でした。
またこの国の人々は鶏肉も鶏卵も食べないのかなと言う素朴な疑問でした。
何故ならば鶏をケージに押し込めたり庭に囲い込む行為と比較して、鶏を絞め殺して食べたり、鶏から産んだ卵を取り上げて食べるその行為の方が、余程残酷で虐待していると思えたからです。

ニュージーランドでは鶏肉や鶏卵を食べる行為は虐待に相当しないのか、その行為が囲い込みと比較して、虐待ではないと言えるのか得心が行かない疑問でした。
ニュージーランド政府の「虐待の定義」について質問してみたいと思いましたが、果たして質問状を出したならば、どんな回答が帰って来るのかと想像しました。
多分鶏肉も鶏卵も食べている筈ですから、「鶏肉などを食することは容認するが、飼育の段階では虐待をしてはならない」ことが法令の趣旨であると言う、非常に説得力に乏しい回答を想像しているのですが。

多分ニュージーランドの鶏たちは、日本の鶏よりも幸せなのでしよう。

中野彌生